月刊OUTって、何だったのかな? 月刊OUTって、何だったのかな?

かつて「月刊OUT」というアニメ/サブカル誌がありました。
元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
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大徳哲雄さん第2回( 12345
インタビュー:大徳哲雄さん 第二回(その5)

(イラスト:柳田直和)
公開日:2026年7月26日


OUT編集部員のこと
「弾けてるやつばっかりだったよ」

Eさん[75]はどういう感じだったんですか。

あの人もね、一種の変人なんですよ。会社の入社試験の時に、作文を提出させられるんですよね。で、かれは自分が自転車泥棒やった時の話を書いてきた。早稲田の政経かなんか出ててさ、エリートなんだよ。それなのに、普通そんなことを入社試験の作文で書かないだろって…。もう、破天荒ですね。で、会ってみたら、すごいまともな常識人。わざわざ受けにきてるぐらいだから馬鹿じゃないし。でも、そういう作文を書くような変てこな部分も持ってると。ある意味でOUT的なんですよ。だから、面白いじゃないかって、合格させてさ、編集部で使ってるうちに編集部員になった。ただ、彼は漫画とかアニメのマニアじゃないんですよ。一般教養的なものはすごく持ってるんだけど。

人をおだてるのがすごく巧いのね。けっこう口八丁手八丁なところがある。だから、たとえば堀井さんとかさくまさんみたいな連載作家の担当にはそういう性格のやつがいちばん合ってるなと思って。そしたらすごくうまくいったんです。

でも最後までどっかOUTになじめないところがあって途中で辞めちゃったんだけど、そしたら『SPA!』[76]に行って、編集長にまでなっちゃった。あそこまで行くとは思わなかった。でも、面白い企画も考えたし、それなりに文章力もあったし、人をヨイショできるような世間知もあったからね。ただ、RIIとかとはあまりうまくいかなかったかな。

GさんもRIIほどじゃないけど、超変人なんだ。

存じております。はい。

猛獣使いだったってわかるでしょ。

わかります。だから、お話を伺ってると、Nさんがいちばん常識人だったんだなと。

あいつがもういちばん常識人。かわいそうにね。

でも、そのNさんが最後までOUTの編集として残ってくれて。

そうなんです。すごく僕は感謝してます。

記事を読んでると、ちょっとこれはNさんには申し訳ないんですけど、Nさんは弾けてない。でもご自身はそれをよくわかってる。

はいはい。その弾ける部分は人に任せてた。だからさ、ある意味で、Nくんみたいなやつが後で入ってきてよかったのよ。だって、弾けてるやつばっかりだったわけだもん。

組織の育ち方として、そういうのが健全だという気がしますね。

さっき、記事は人なんだなと強く思ったのもそこなんですけど、大徳さんがアウトシャイダーを「もうやったれ」ってやったような弾けかたにNさんは行かなかった、やっぱりそれは人の個性なんだなと。

人なんです。編集部という意志をもったなにかがあるわけじゃないんですよ。

OUTはそれを強く感じさせる雑誌だったと思います。編集者が変わると、雑誌のカラーもがらりと変わって。読者はみんなそれぞれに自分が読んでいた時代のカラーをOUTだと思っているけれど、ぜんぶの時代をとおして眺めると、ぜんぜんひとつじゃない。

ただ、その中でぶれない部分もあって。お笑い精神みたいなものとか、「これはOUTでしかできないだろう」という自負みたいなところもあるし。細かいことでいうと、さっきの話に戻りますが、読者投稿については『ミックスサンド』で作った文法が最後まで続いてますよね。それはとても面白いなと。

前回のインタビューでも言ったけど、そこはOUTが失ってはいけない部分だと思うんですよ。

インタビューでMさんが入った経緯をうかがってみると、Mさんも本当にOUTに入るべくして入った人だというのがよくわかって。だから、OUTという雑誌の根本はずっと変わってなかったんだと実感しました。読んでいた当時は、失礼なことにMさんをあまりOUT的な人と思っていなかったんですけど、全然そんなことはなかったんだなあと。

むしろ、編集長時代のNさんはそういうところをMさんに任せてたんだろうね。

これまでYさんの話があまり出てきませんでしたけど、どういう方だったんですか。

Yさんはね、もともと別の出版社にいたんですよ。その後、みのり書房に来て人手不足だったOUT編集部に入った。だから不本意だったかもしれないね。だって、べつに漫画やアニメが好きなわけではない、普通の人なんです。

そうなんですね。確かにYさんのカラーみたいなものは記事に出てきてないなと思ってました。

普通の会社員なんですよ。

たぶんそのY編集長の時代も、前半は大徳編集長のやってたことをそのまま継続してやってた感じなんでしょうね。で、途中で部数が落ちてきて、なんとかしなきゃいけないってときに、弾けられなかった。

順番からいえばRIIが編集長になってもよかったし、Gさんがなってもよかったと思います。だけど、RIIはとてもじゃないけどやらせられないでしょう。Cさんもできないっていうんで、Yさんしかいなかったんですよ。

OUTのOUTらしいところは、ほかの編集部員やライターの方たちが継承してくださったという印象があります。

10周年のあたりでの『人生冗談』[77]なんかもすごかったですけど、後期の、Nさんが編集長をやってたころのスタジオライブのページ[78]はさらにおかしくなって。あそことHEGEのページ[79]だけすごい黒い雲が渦巻いてるみたいな感じなんですよ。

無茶苦茶だったね。あのコーナーが残ってたのはほんとによかった。

ほんとそう思います。あれがなかったら、きっと俺たちもこの企画をやってない。

OUTはちゃんと最後までOUTだったんだなあと思います。終わってからも、MEGU[80]というおまけまであったし。

さくまあきらさんと堀井雄二さん
「OUTがあるのもさくまさんのおかげなんです」

さくまあきらさんと堀井雄二さんのお話をうかがってもいいですか。

OUTがあるのもね、いろんな意味でさくまさんのおかげなんです。さくまさんが、編集部とか、漫画家とか作家さんとか、いろんな人たちを紹介してくれた。とにかく交流範囲がすごく広い人で、面白い発想をもってた人だから、僕としてはすごく助かったんです。だから、ものすごくさくまさんには恩を感じてます。

さくまさんが、『さくま学園』[81]の連載の最後に、「アニメ誌であるOUTで投稿のコーナーを持ってアニパロをやらないというのは非常に辛かった、でも、それは意識してそうしていた」と書かれていて。他にアニパロやってるコーナーはいくらでもあるから、それをしないことを貫いた、と。だから、全体の中の自分の位置を見る、そういうバランス感覚がすごい人なんだなと僕は思ったんです。それであれだけの内容を…。

いま読んでも面白いですよ。さくまさんは、アニメ関係とかそういうものに関して、自分がこういう企画をやりたいっていうことを持ってくる人ではなかった。だから逆にやりやすかった。

さっきライター同士の切磋琢磨という話がありましたけど、同時期に堀井雄二さんもコーナーを持たれているわけで、そういうライターのライバル関係みたいな感じは見えましたか。

さくまさんはある意味では堀井さんの恩人なんだけどね。堀井さんの『ドラゴンクエスト』[82]がブレイクして、そういう感情が起こったかもしれないね。『桃鉄』[83]だって、ドラクエがなかったら発想しなかったかもしれない。なぜなら、ドラクエにはないものを、自分だったらこういう風にやるよっていうところがすごくあるのね。

マップ前提とか、そういうところはドラクエを意識している。

ドラクエってやっぱり、ゲームの最後まで行くのにけっこう努力が必要じゃないですか。で、さくまさんはとにかくわかりやすいものを作った方がいいと。だから、みんなが知ってる日本という土地で、みんなが知ってることを踏まえたうえでゲームを作ったら面白いだろうと。すごいシンプルな話だと思いますよ。

でもそれで桃鉄を作っちゃうんだからすごいですね。

そう、すごいんですよ。

堀井雄二さんは、ゲームデザイナーになろうと思ってなった人じゃないから。もともとは漫画家になりたかったんですよ。早稲田の漫研に入って、『ガロ』[84]の漫画みたいなのをずっと描いてたんだけど、それはうまくいかなかった。それでフリーライターをやって、OUTの企画もやって。ところがもともと理工系の人だから、ゲームデザインみたいなものに興味があるということで、どんどん行っちゃったわけです。

ゲームっていう、いわゆる作家というものが全く存在しなかった新しいエンターテイメントのジャンルが、ポーンと自分の前に出てきた。しかも自分の持っている理科系の能力みたいなものを活かせる、ここだと思ったんだと思うんですよね。物語を作る能力とか構成力とか、もともとそういうものを持ってたから、漫画家にはなれなかったけども、そこで必要だった能力をゲームデザインで活かせたんですよ。

『ドラゴンクエスト』をジャンプで漫画化するときに三条陸さんの名前が挙がって、堀井さんが「OUTの繋がりで知ってるから彼ならいいよ」って言って、それで『ダイの大冒険』[85]をやって大ヒットしたっていう話がありますよね。昔のつながりを大事にして、「この人はクリエイターとしても、人としても信用できる」と。その話も素晴らしいなと思うんですが。

素晴らしいと思いますよ。堀井さんも、須田留貧・三条陸みたいな、ああいう才能を認めて、人格も認めてるからオーケーしてるんですよ。ドラクエがブレイクしたからって、群がってくる人はもう無数にいたわけじゃないですか。その中でちゃんと見抜ける能力を彼は持ってたってことなんですね。

堀井さんからは、他の人をライバル視するみたいな感じは受けていましたか。

堀井さんはそういう人じゃないの。あんまり堀井さんから、欲を感じたことがないんですよ。不思議な人なんだよね。

樹想社のこと
「搾取しないでやれるかを自分の課題にした」

ひとつお聞きしたかったのが、樹想社[86]でのお仕事に関してなんですけど、OUT的な感覚というか、パロディ感覚とか、そういうものがどう引き継がれていったんでしょうか。

難しかったね。うん。樹想社を作るなんて自分でも思ってなかったし、OUTをやめた時にまさか出版系の仕事を継続してやるとは思ってなかったからね。たまたまなんですよ。やめてフラフラしてて、フリーライターみたいなことやってたら、『ジャンプ』の鳥嶋さん[87]って、鳥山明を担当してたドクター・マシリトですけど、あの人から「ブラブラしてんだったら」って仕事もらって、やっているうちに、「一人のフリーライターに出すにはでかすぎる仕事だから会社を作れ」っていわれて、作ったのが樹想社なんです。

だから、自分の中に野心があってやったわけじゃないんですよ。どっちかっていうと、会社を作るとか会社の社長になるとかってさ、要するに資本家になることですから、打ち倒さなければいけない存在だったわけじゃないですか。そもそも、大学を卒業して会社に入ったのもそうだし、なんでうちの親父のあとを継がなかったのかっていうと、資本家になりたくないみたいなところがあった。すごくそこで悩んだわけですよ。

ただ、資本主義を倒そうって言ったってね、結局倒せないし、無理があったんだってことがわかったわけじゃないですか。で、どうしようかなって時に、僕が思ったのは、とにかく資本主義の社会に入り込んで、痛みを抱えながら、生きてみようと。本当に資本家っていうのが労働者を搾取する悪の存在なのかどうなのかっていうのを試してみたいなと。社長になって、資本家になってみればわかるだろうっていう考えがあって、フリーライターを経て、会社を作ったんですよね。

だから、OUT的な理念とかさ、そういうので作ったわけではないんです。実際に『ジャンプ』なんてさ、はっきり言ってもう超資本主義の世界なわけよ。そんな世界の中で、自分は生き残っていけるだろうかっていう。でも、OUT的な感覚を生かそうという気持ちはある程度あったよ。例えばみのり書房に入った時も、自分が作りたかった本があって、それを出せるっていう気持ちがあったわけだしね。

ただ、編プロとしてはそこそこまで行ったけどさ、出版業としては上手くいかなかった。出版社になりたくて、出版社機能も持って、色々やったんだけど、動かなかったんですよ。やっぱりね、資本力が必要なのよ。言い訳でいうんじゃなくてさ。一個人が立ち上げて、どんなに能力があってもそれはできない。難しいよね。

新しい雑誌を創刊するとか、でっかい出版社に企画を持ってってどうこうっていう時代でもないじゃない。ただ、とにかく、集英社はいっぱいアニメ化して成功してんだから、出版物もいっぱい出して儲けましょうよ。それだったら手伝うぜっていうところですよね。でも集英社はそれに対しても全然消極的でした。

おひとりで始められて、その場合はいわゆる一人親方で、それは資本家とは言えないじゃないですか。で、そのあと従業員を何人か雇用すると資本家になる。

みのり書房を辞めて、この先どうしようかと迷いながら、しばらくはフリーライターをやっていたんです。そうこうしているうちに、人員を増やして会社組織にしてほしいという話があり、会社にする決断をしたわけです。そうする際に、従業員を雇ったときに、労働者を搾取するってことをしないでやっていくことができるかっていうのを自分への課題にしたの。だからいまだに搾取をしたとは思ってない。逆に、労働者が資本家を搾取することもある。そんなことはどの経済学の教科書にも書いてませんけど、理論と現実の違いというか、それがわかっていった。だから資本家になって大儲けするのは、きれいにやってたらものすごく難しいと思います。

立ち上げの段階から、資本家としていかにあるべきというようなことを考えていたんですね。

そんな大げさなものじゃないけど、ものすごく悩みました。もし僕が金儲けというか商売に興味をもってたら、IT企業を作ってお金を稼いでやろうと思っただろうけれど、そういう意識はまったくないんだから。「会社にしないと仕事出せないぞ」っていわれて、わかりました、じゃあ会社にしますよっていって、少しずつ社員を入れてって、っていう。

資本家として労働者を搾取しないっていうのは、社長の給料と社員の給料がアメリカみたいに何千倍、何万倍離れているようなことはおかしいから限りなく近づけて、経営者だけが儲かるなんてことにしないとか、会社の調子が悪くてもちゃんと給料を支払うとか、そういう最低限のことですよ。それを守ってやってきてるから、無理があるわけじゃないけど、大きな成長はできなかったね。

終わりに
「OUTを創刊した編集長に聞きたいことがいっぱいある」

今となってみればさ、初期のOUTはね、ほんとに貴重な文献なんですよ。

このあいだ、ついにOUTの創刊号を手に入れたんです。そのなかに、少し前に亡くなった聖咲奇さん[88]が、ロックのアルバム評みたいな記事を書いてるんです。これがすごく面白そうなアルバムで、「え、そんなのがあったの、欲しい!」って思って。ところが全部読んだら、最後にちっちゃい字で「これは嘘です」って書いてあって。
(一同笑)
もうOUTは最初からOUTだったんだなって思いました。

ほんとにね、僕はOUTを創刊した編集長[89]に聞きたいことがいっぱいありますよ。どういう考えでやってたのかって。

当時、哲学者のミシェル・フーコー[90]が、「外の思考」っていう本を書いたんですよ。外部の思考ってものが哲学的にすごい重要なんだってことを言い始めたんだけども、それが翻訳されたのはOUTが創刊された時に近いんです。創刊時には、フーコーのこれを当時の大方の編集部員や関係者たちは知らなかったと思う。OUTって言葉をどこから持ってきたのか知りたい。なんでOUTだったんだろう。さすがにフランス語でフーコーの原著を読んでたということまではないと思うんだよね。でも、まさに創刊号は「外部の思考」というところから雑誌が作られていて、不思議なんですよ。どっからそういう発想を持ってきたのかな。

サブカルチャーとかカウンターカルチャーをやりたかったんだろうという気はしますけど。

あとは単純にアウトサイダーとかね。

みのり書房サイドの話も聞いてみたいですね。なんでそれを許したっていうか、ゴーを出したんだろう。

本当に売れない本ばっかり作ってましたもんね。

創刊当時の人たちは、50年後に、こんな談義をしてるだろうとは思ってなかったでしょうね。

すごく大きくなりましたね。ひとつのカルチャーになった。OUTってなんだったんだろう、ということを知るのがわれわれの目的ですけど、今回うかがったお話ですごく大きなピースがはまったような気がします。

僕が思ったのは、やっぱり人なんだなっていうことと、人次第であるにもかかわらずなにかちょっと通ってる部分があるという、その二つですね。

ほんとそう。ほんとにね。

(了)

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大徳哲雄さん第2回( 12345

[75] Eさん(靍師一彦) : 月刊OUT編集部員。『ミックスサンド』や『花小金井かんとりい倶楽部』などの投稿コーナーを担当。のちに扶桑社『週刊SPA!』編集長。

[76] 週刊SPA! : 扶桑社発行の総合週刊誌。'88年-。靍師一彦は'86年、みのり書房退社後にサンケイ出版に入社、創刊から同誌の編集に携わり、'93年より三代目編集長を務める。その経緯は著書「週刊SPA!」黄金伝説 1988〜1995 おたくの時代を作った男』(朝日新聞出版、2010年)に詳しい。

[77] 芦田豊雄の人生冗談 : 人生相談のフォーマットで強烈な下ネタと破壊的なナンセンスギャグが炸裂する投稿コーナー。'85年8月号から'88年4月号まで。下手な絵ほど掲載される面もありアクの強い投稿常連が多く生まれた。女子が…を引っ張り合う「たむぽでポン!」というコーナーも。アンケートでは人気・不人気ともに上位だったとか。

[78] ライブのページ : 『スタジオ・ライブのライブDEずっぽ〜ん!』('91年10月号から'95年5月号)。当初はアニメをネタにしたギャグ投稿が多かったが、徐々に「勝ち抜き乳合戦」など『人生冗談』に匹敵する下ネタ投稿が増え、人冗時代の投稿常連も数多く復活した。

[79] HEGEのページ : 『納得いかねー世直し団』('91年11月号から'95年5月号)。小学生男子の言動をそのまま大人にしたような記事とシュールで尖った笑いの投稿コーナーで、スタジオ・ライブの投稿コーナーとともに、後期OUTの笑いの部分を盛り上げた。

[80] Magazine MEGU : 月刊OUT休刊直後に青磁ビブロスから発刊されたアニメ誌。'95年5月に創刊準備号、8月発売の9月号より正式に創刊。創刊編集長は南波健一郎。当初は後期の月刊OUTの路線を継承し、多くのOUTのコーナーと執筆者がそのまま移籍していた。

[81] 私立さくま学園 : さくまあきらが構成する、学校の各教科をテーマとした投稿コーナー。'80年11月号から'84年1月号まで。のちの『ジャンプ放送局』の基になる企画も多く、OUTとジャンプの両方で常連となる投稿者もいた。特に「書道の時間」のネタの馬鹿馬鹿しさと、さくま校長のコメントは抱腹絶倒モノ。

[82] ドラゴンクエスト : 堀井雄二によるロールプレイングゲームのシリーズ。略称は「ドラクエ」。第一作はファミコン用ソフトで'86年発売。OUTの投稿コーナー『ゆう坊のでたとこまかせ』ではドラクエの制作の模様や売れ行きの心配、ゲームの感想を求める文章などが書かれ、OUT読者はドラクエが大きくなっていくのを自分のことのように見守った。

[83] 桃太郎電鉄 : さくまあきらによる鉄道会社運営をモチーフにしたゲームソフトのシリーズ。略称は「桃鉄」。第一作はファミコン用ソフト('88年)。

[84] ガロ : 青林堂から発行された漫画雑誌。1964年-2002年頃。前衛・実験的漫画を掲載し、商業誌とは一線を画す表現を数多く生み出し、日本のサブカルチャー史に大きな影響を与えた。

[85] DRAGON QUEST -ダイの大冒険- : 『ドラゴンクエスト』シリーズの世界観・設定を元にした漫画。'89-'96年。堀井雄二(監修)、三条陸(原作)、稲田浩司(作画)。アニメ版は'91-'92年、2020-2022年。

[86] 樹想社 : 元OUT編集長の大徳哲雄が'89年に設立した編集プロダクション。

[87] 鳥嶋和彦 : 元週刊少年ジャンプ編集長。『Dr.スランプ』『ドラゴンボール』など多くの作品をヒットさせる。

[88] 聖咲奇(ひじりさき) : フリーライター、編集者。特撮専門誌『宇宙船』の創刊、構成・執筆を担当。国内外のSF・特撮作品のムーブメントを作り出したことで知られる。2025年逝去。件の記事はレイ・ブラッドベリ脚本のアニメ「陽気な朝食」のサントラについてで、参加アーティストはスパークスにアリス・クーパー、ブライアン・イーノに801のメンバー、声の出演でニコ…という「嘘でしょ!」というラインナップだそうだが、そもそもこの作品自体が嘘だった。

[89] 創刊時の編集長 : 創刊号の編集後記では「BOSS」、のちに「B」。OUT編集部に在籍していたのは'77年5月号から11月号まで。「企画力、行動力は抜群だったが、先走りしすぎる欠点もあり、どちらかと言えば副編(副編集長)タイプ」('78年11月号、「不完全版OUT大事典」より)。

[90] ミシェル・フーコー : フランスの哲学者。権力・知識・言説・制度の関係を分析したことで知られ、20世紀後半の人文社会科学に大きな影響を与えた。『外の思考』の原著は'66年、日本語訳は'78年発行。


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