元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
略歴1984年より月刊OUT編集部員。アニメ記事や投稿コーナー『見たかキミは…!?』『好きなものはエトセトラ』などを担当。'91年より'95年の休刊まで六代目編集長を務める。誌面での名称は「N」、愛称は「Nどん」。現在はフリーライター。
(聞き手:OUT勝手連 SII/KN/WH、 イラスト:みづぼし巽)
インタビュー:2025年10月5日
公開日:2026年3月24日
まずは、月刊OUTとの関わりについて教えていただけないでしょうか。Nさんが編集後記に登場するのが'84年の6月号で、それが新入社員で入ってすぐなのかなと思いますが。
あれはね、'84年の1月かな。卒業が決まってたけど、就職活動がうまくいかなかった。僕、一浪・一留してたので、もうそのとき24歳で、これはもう一度留年とかはできねえなと思ってた時に、朝日新聞にみのり書房の募集が載ったんですよ。みのりもあの当時はそんなことやる余裕があったんだよね。それで応募したら面接まで残って、大徳さん…Tさん[1]と、Cさん[2]、この2人とみのりで会ったんですよ。お茶の水の古いビルでね。
それが1月の中旬だったと思うんですよね。そうしたら、けっこう応募者はいたはずなんだけど、1週間かそこいらで来ないかって言われたんですよ。で、OUTは前から読んでたんだね。アニメファンだったし。それで、もう行く場所もないし、それとは別に出版関係も実は講談社とか受けたりしてて、マスコミに入れたらいいな、というのもあったので、いいご縁になれば、と思って行くことにしたんですよ。そしたら、当時のOUTって結構忙しくて、バイトも、女の子は結構いたんだけどあんまり男のバイトがいなかったらしいんだよね。すぐ来てくれ、という話だったので、2月の2週目ぐらいには、お茶の水のみのり書房に通い出したんですよ。もう卒業までやることないから。
それで月〜金で通い出して、いきなり手紙の整理とか原稿のリライトとかをやらされて、こんなことやるんだなっていう基礎を教わる感じで始まったんです。正式には4月1日なんだけどね。それで、6月号って4月刷りなんですよ。だけどその前から仕事をやってたので、早くも(編集部員のキャラクターの)イラストを用意していただけて。イラストはえのさん(榎本一夫さん)[3]だったんだけど、デザインをやってたバナナグローブさんに挨拶して原稿を取りに行ったり、そういうことをやってたので、お世話になった。それでいよいよ本格的に編集部に入ったんです。
僕は最初から「アニメが好きです、OUTの投稿の記事も面白いですよね」なんて話をしてたんだけど、その時にはRIIさん[4]という偉大な人…本当にマニアとしてはすごいよねって方がいたので、RIIさんの下でサンライズとかアニメの紹介記事をやりなさい、と大徳さんから言われてそれを始めた。あと投稿に関しては、『READER'S VOICE』[5]は大徳さんがやってたけど、Cさんがいわゆる落語的なコーナー[6]をやってたので、そちらも「これ手伝って」って言われてやってました。
このへんはね、結構よく覚えてるんですよ。すごく狭い編集部だった。皆さんは編集部に来たことありますか?
僕は高校生の時に見学に行きましたね。
古い編集部ね。ビルが建て替わっちゃったからね。
そこに今おっしゃったお二人と、それからLさん[7]・Yさん[8]・Gさん[9]・Eさん[10]、そしてRIIさんで、南波さんを含めて8人がいらっしゃったんですね。
そう。Eさんが1番若かったんだけど、僕とはちょっと離れてたんだよね。
あの当時は、ピークは過ぎてたけど、それでもOUTは調子は悪くはなかった時代なんですよ。それでいろんなことをやってて、だから人も足りないっていう、そういう状況だった。ただ僕は同人活動とかやってなかったので…だから漫画もアニメも映画も好きだし、よく見てた方なんだけど、そういう人間が入っていった、と言う感じでした。
「アニメーションのできるまで」'84年10月号から'85年6月号まで断続的に連載された記事。アニメ業界のことを何も知らない新人のNがアニメ制作現場の実態を取材する。「空気を読まない」Nに業界のプロたちが辟易しながらも丁寧に教えてくれる、という内容で、そのドタバタを描く文章も楽しいが、アニメ制作の流れがわかりやすく解説されており、いま読んでも面白い。
84年10月号から、『アニメーションのできるまで』という連載記事が始まります。
はい、そうです。そういう、よく知らないで入ったというのが前提というか、そういうキャラだったので、RIIさんから言われて、「この機会だから取材をしてみよう」ということになって。実は単独じゃやってないんですよ。これ、ほとんどRIIさんと一緒なんです。
6、7割はRIIさんと取材に行って、完全にRIIさんの監修を受けて原稿化したんです。僕はまだ原稿書きとしては未熟だったので、そんな感じで進めたんですけど、あっち行け、こっち行けというのはやらされて。だから当時、サンライズ[11]の企画室のボスの飯塚(正夫)さん[12]とも親しくなれたし。
各スタジオのプロデューサーさんにも挨拶できたし。安彦さん[13]は、その当時は会えなかったけど、富野さん[14]とは挨拶したかな。神田(武幸)さん[15]もまだお元気だったし、脚本家の方には結構たくさんお会いして、星山(博之)[16]さんも、当時お元気でね。あれはゼロからやろうってことだったので、わりかし体当たり的な記事で、やっぱり面白かったし、皆さんの反応も良かったんですよね。
いま読んでもとっても面白いですね。
アニメの演出ってこんな仕事なんだって僕は今にして初めて知りました。
そうなんですよ。アニメスタジオって何やってるのっていうのが、あんまり知られてない時代でしたからね。特に、絵を描いてる以外のところ。そこもやろうということで入っていって、広告代理店までまわったからね。アニメが本当に放送されるまで、こんな状況なんだってのが、僕自身もよくわかったっていう企画でしたね。
文章もとっても面白くて。
あれは、RIIさんがうまいんだよね。僕、もう絶対頭が上がらないもん。もう本当に最後まで真似しようとしてたし。やっぱりOUTのアニメコーナーのこだわった見せ方を作ったのはRIIさんだからね。ただ、そこまで…弟さんの榎野彦さん[17]と、あの兄弟にはやっぱりマニア度のすごさっていうのでは敵わないなと思ってた。だけど、(RIIさんを)使うのが難しいってのは確かだと思う。だから大徳さんも苦労してたんだと思うんだけど。
その感じは下から見えてました?
うん、そういう感じが見えてましたね。灰皿投げる[18]のはともかく、RIIさんに大徳さんが怒ってた…というか、もう実力はあるのに、もっと前に出てさ、別に別冊編集部ぐらい作って、編集長やるぐらいのことはやってほしかったんじゃないかなと思うんだよね。もう『ランデヴー』[19]はその時は終わってて、OUTから派生したのがコミック関係とか、『よたろうランド』[20]とかばっかりだったので…でももうちょっとOUTとアニメムックという形がまだまだいけそうな時代だから。
実は、アニメムックも、そろそろ囲い込みが起こってきた…角川はまだ入ってきてないけど、大手から「他(の出版社)に出させるな」的な話が出てき始める時期ではあったんだけど、でもあの当時、アニメ誌だったら全社で出せたからね。みのりも出してたし、学研も秋田書店も当然アニメージュでも出せたっていう時代だったから、各社そういう…切磋琢磨じゃないんだけど、出してちゃんとビジネスになった時代。今は制作委員会を作って「出版系はうちね」っていう感じになっちゃってるんだけど。「他に出させるのは独占契約で」みたいなのが出てくるのは、もっと後だよね。
そういうムックだと、OUTの増刊で『ガンダムセンチュリー』があって、『バイファム』だとか『ミンキーモモ』『ボトムズ』とかありますけど、そこから先、『サムライトルーパー』までちょっと空いてるんですよね。
そうなんですよ。『サムライトルーパー』('89年12月号増刊)は完全に僕が企画をやったんだけど、その前に僕が最初に関わったのは、ちょうど『VIFAM PERFECT MEMORY』('85年1月号増刊)の校了の時で、「校正用紙ってこうなのか」って見せてもらった。だから『マクロス・パーフェクト・メモリー』('83年10月号増刊)は間に合わなかったんですよ。その前に読者として見たのは『ガンダムセンチュリー』('81年9月号増刊)で、こんなことをやるところなんだという印象を持ってたんですよね。
『ボトムズ・オデッセイ』('85年11月号増刊)の時には、完全に下っ端として入れてもらってて、いろいろライターさんたちとか絵描きさんたちと話したり、インタビューの横にいてテープ録音したりしたっていうのは思い出ですね。
初期の頃はそんなふうに、特集記事とか、アニメ系の記事を主に担当されていたんでしょうか。
そうですね。アニメ記事と、『ミックスサンド』の中でも、ハガキの分類と第1次の選び。『よたろうランド』の担当は、CさんとかEさんだったので、最初に僕とバイトさんで見て、「これ面白いよね、いいよね」というのを渡すってやってたはずです。そんな記憶がありますね。
「見たかキミは…!?」'88年5月号から'95年5月号。アニメの感想やおすすめアニメ作品を投稿するコーナー。特にサンライズ作品については「やったねサンライズ」というコーナーが独立した。Nが担当する同様のコーナーは他にも「好きなモノはエトセトラ」があり、こちらは漫画・小説・音楽などその時々で様々なもの・作品について読者がおすすめしてくるハガキを掲載した。「今月のさがしもの」では断片的な情報による読者の問い合わせに対し答えを他の読者が投稿してくるという、Google以前のコミュニケーション文化が醸成されていた。
それでだいたい'88年ぐらいから、ご自分のコーナーで『見たかキミは…!?』とか、そういう読者がおすすめをしてくるコーナーを担当するようになります。
そう。あのころアニメファンの読者欄の対応は、大徳さんとRIIさんで…大徳さんはそのころもう退社を考えてたのかな…そこが、弱くなり出す感じのところで、アニメの感想に関して、「やってみないか」と言われたので、やり出した。
僕ら読者から見ると、そういうおすすめコーナーはとにかくNさんっていう括りがあって、他のコーナーとちょっとカラーが違ったんです。
それはね、あの当時の状況もあって、実は映画雑誌みたいなアカデミックな批評が、アニメはなかなか辛くなってきた時なんです。僕も映画ファンだったので、映画とか音楽とかの、いわゆる批評を含めた記事が入るようなのが好きなんだけれども、それはあの当時、僕が入るより前の時に、怒られるっていうのがずいぶんあったらしくてね。OUTだけじゃなくて、アニメ誌っていうものに対して。だから富野さんとか安彦さんに怒られたっていうのが漫画にもなったりしてるけど[21]、あれは実はそっちじゃなくて、プロデューサーとかそういうところに呼び出されて、チェックされるんですよ。だから僕の時にはもうアニメは、アニメ会社…東映・サンライズも各社含めて原稿チェックが始まってた時代なんですよね。
この間、実はアニメックの井上さん[22]にインタビューしたんですよ。そしたら「アニメックでもそうだった、よく怒られましたよね」っていう話をしましたね。怒られたっていうか、書き方が良くないから文句を言われるとか、原稿を差し替えろとか。その時僕まだ20代だったからあんまり言えなかったけども、マスコミではないなっていう、そんな印象を持ったんです。『ナディア』[23]あたりまでそうだったのかな。だからあのころ、霜月たかなかさん…アニメ・ジュンさん[24]ね、彼もだいぶ困ってた感じはあったよね。あともうひとつ、あの当時、実はそういう批評を含めた記事を喜ぶ風潮が、減退してた時代でもあったんですよ。その時間があったら何が面白いのか教えてくれ、みたいな手紙がけっこう来てね。
ただ、実を言うと(おすすめのコーナーでの)僕のそのスタンスがなかったら、『トルーパー』[25]に行きつかなかったんですよ。『トルーパー』の批判っていうのはもうめちゃくちゃだったんだ。「これはサンライズがやるものじゃない」とかね。『サムライトルーパー』っていうのは確かに異質だったし、僕自身は面白いと思ってたんだけど、そうじゃない意見が多かった。だけど一部の女の子たちがすごく食いついていたので、こういう紹介はこのまま続けるべきだと思ってたのが、トルーパーのスタッフにも伝わってて、すぐ「ムックやりましょう」ってすんなりと決まったんです。
草尾(毅)さん[26]とか佐々木(望)さん[27]とか、声優さんたちにも「よくやってくれました」って言われたから。「OUTは本当によく紹介してくれたよね」なんて話を、実際に会ってしてもらったので、そういうのは嬉しかったね。
本誌の方も、5号連続でサムライトルーパーのキャラクターの表紙[28]、というのがありました。
そう、あれはアニパロ作家の岡本章さんね。トルーパーは、アウトの寿命をおそらく5年は伸ばしてるはずなんですよ。ビジネス的にすごく成功したので。
実は、みのり書房ってすごく給料が低くて、ボーナスもほとんど出てないんです。'84年以降は「冬の時代」が来ちゃってるんで、OUTもぐっと下がっちゃった。それで『トルーパー』のムックが出た時だけ、ちょっと出るっていうような状況で。だからあれがなかったら、OUTはおそらくもっと早くなくなってたと思います。
それと同時に『ニュータイプ』[29]が出てきて('85年4月号が創刊号)、ああいうおしゃれな、商品的な価値も高そうな雑誌の方が売れる感じになって、あとは、低価格の『アニメディア』[30]との二巨頭になった。『マイアニメ』[31]、『ジ・アニメ』[32]は消えていくことになって、『アニメック』[33]はもうちょっと頑張ってくれるかなと思ったんだけど…『アニメック』の編集部も仲は悪くなくて結構付き合いが深かったので、話をしたりしてたんだけど、あそこも親会社の都合も大きいよね。あとは『ファンロード』[34]が唯一残ってて、『ファンロード』があればOUTは弱いよねとは思ってた。実際そうだったからね。
だから、OUTって微妙なところに立っちゃったなっていうのが、あの当時の感想ですね。『ファンロード』は本当に同人誌だったから、好き勝手にやってたんですよ。本当に読者の投稿だけでやるとあれができるよね。あそこもすごい低予算で作ってたからね。
そんな状況が続いてる間に、「その割に編集部の人数が多いじゃないか」という話をやってるわけです。Cさんは、頑張って『アニパロコミックス』[35]を作ってたんだけれども、やっぱり会社側とぶつかったんじゃないかな。そうやって『アニパロコミックス』関連が停滞しちゃった時に、縮小の話が出てくるんですよ。
Yさんが編集長で、僕が副編だった時に、「だからどうするんだ」って話になってね。でもまだ僕も30歳前後だから、そんな人間に聞くなよって言いたくなるような状況ではあった。その(縮小した)体制で続けるかどうかって話を…確か社長から言われたんだったよな。別にそれで給料上がるわけでもないって話も。ただ、もう僕としては、続けるしかないっていうか。
それで「出版社として今後どうするのか」って話をしたんだけど、やっぱり社長はどっちかというと紙屋さんの人[36]で、(みのり書房自体も)紙が売れればいいというので始まったというのもあるからね。それでともかく、プライマリーバランス…要は赤字を出さないで作れということで、それだったらこの人数でやるしかないっていう、すごい状況にはなっていっちゃったんですよ。
編集部が2人体制になったのは'91年10月号で、それから4年間、その体制で編集長として務められたんですね。
はい。アニメ誌の体裁を守らなくていいのかどうかというのは、常に微妙なところだったんだけど…アイデアが他になかったっていうか、テレビ雑誌にするにはもっとお金が必要だったし、特撮やるにもお金がもっと必要で、実はあの当時でもアニメがいちばん安かった。で、そういうのをやらなくなると、『ファンロード』に勝てないって気持ちはあるんだよ。
OUT自体は、あの当時、損益ギリギリぐらいだからね。3万部前後出してたのかな。最後は、2万5、6千部だったはずなんだ。だから実際売れたのが1万8千部とか2万部とかの線になっちゃうんだけれども。それで小林くんと2人でそれぞれムックを苦労して出して、続けられるようにしようと。だから小林くんは『ラムネ&40』[37]とか『超人ロック』[38]をやって、僕はサンライズ系勇者シリーズで、『ファイバード』[39]とか『ダ・ガーン』[40]をやったりしてね。
それで2人でやってて、僕は見せかけ管理職だから、とうぜん残業代はでない。ただ、本作りの予算取りに関してだけは、僕は社長のところに行ってた。本作りだけは止めちゃいけないと。あともうひとつ、僕はある意味で、空き地の管理人だと思ってたんですよね。みんなが遊べる空き地をなんとか残そうっていう、そんな気持ちがありました。ありがたいことに、1万人からの人が読んでてくれたというのがあったので、そこは勝手に潰すとやばいよな、と思ってたんです。
たださ、悲惨じゃなかったのが怖いんだよね。
悲惨じゃなかったんですか?
うん。小林くんはけっこう苦労したかもしれないけど、僕は自宅に居候してたし…人にいろいろ会えたし、面白いアイデアがあったよねっていう感じではあったんです。僕も小林くんも聖悠紀さんとは仲良くさせてもらったし、芦田豊雄さんにも仲良くしてもらって、芦田さんもうちが危ないというのはわかっていながら、原稿をくださったりしてたから。ただ、やっぱりプラスマイナスゼロで、この先、将来がないというのは、僕よりも経営者の方が先に音を上げちゃったんだね。
何度か他の本を出す提案はしてるんですよ。でも絶対売れるとは言えないのがこの業界だから。それで失敗したら最後になるから、もう言えなくなっちゃってる状況でもあったんだな。「こいつは絶対に売れる」なんて絶対言えないからね。それを言った途端、それ一号で終わって、「はい、さよなら」になっちゃうから。もうちょっとね、Cさんの仕事を遺産にできる漫画編集者が育ってればよかったんだけど、そういう漫画編集者は育ってなかったからね。
『アニパロコミックス』の方の人ですか。
うん。実を言うとアニパロに関してもそのころクレームの嵐になってたんですよ。ひとつは内容だけど、でも、一番大きかったのは版権料。版権料を取られちゃったら『アニパロコミックス』は成り立たない状況だったんです。あそこで描いていた人たちも、アニパロっていうのは単行本ですらなかなか出せないことになっていっちゃうんですよね。だからアニメ会社がちゃんとしてきちゃったんで、ちゃんとしてない雑誌が生き残れなくなったっていうことだと思ってください。世の中がめちゃくちゃだったので、めちゃくちゃなことをやれる雑誌がたくさん生きてたんだけど、それができなくなっていっちゃったっていうのはあるよね。
17周年('94年4月号)の時の編集後記に「好き勝手にやって華々しく散ろうと考えた時もあった」って南波編集長が書かれてるんですけど、これは今おっしゃったようなことだったんでしょうか。
そういう状況はあります。あの時代って、バブルが崩壊して景気が悪くなったし、ほとんどのアニメ会社がすごい苦労してた時だったんですよね。だから、「何かアニメで暴れられることあるかねえ」とか、そんな話を小林くんとはしてた。ただ、現場の人と仲良くやってると、なかなかそういうことはできないんですよ。「現場はもっと苦労してるのに」って感じでしたからね。
現場っていうのは…。
アニメーターとか、進行さんとか、そういう本当の現場ですよね、経営者じゃなくて。経営とか管理側は版権をとって、といったことを考えてはいたんだろうけど。あの当時の若いアニメーターさんもすごい低い給料だったから、売れない限りは大変だったと思うし、漫画家も、売れない漫画家とかたくさんいたから。だから、周りがそんなだったからやれてたのかなっていうのは…全くいい状況じゃないけどね。
あの当時OUTで、オリジナルのものであったのは、聖(悠紀)さんの『超人ロック』だけだった。ただ、ロックもどっちかというと、少年キング・少年画報社とか、あっちでやった方が大きかったからね[41]。だから、OUTに巻き込んじゃうとちっちゃくなってしまうということになるんだけど(笑)。
『トルーパー』のムックやなんかのライターをやってくれた人たちも、OUTを抜けてからの方が発展してるからね。一番は三条陸さん[42]で、今や、大作家さんですよね。『ダイの大冒険』で『ドラゴンクエスト』だから、OUTの繋がりだけどね。さくまあきらさん[43]とか、堀井雄二さん[44]とも話をしたけど、あの2人でもどうしようもなかったと思うな。
差し支えなければ、Y編集長さんはどういう感じだったんですか。つまり今おっしゃっていた間の時代ですよね。
あのね、僕が副編でアニメをやって、Yさんは管理プラスいろいろやるって形にしてたんですよ。だけどある時にいなくなっちゃった。現場でやらないんだったら他の企画をもっと出してくれ、という思いをみんな持っていたと思います。ただ、それができないんでどうしようかってのがYさんも悩んでたんだと思うんだよね。だってさ、一社一誌(※みのり書房からOUTしか雑誌を出していないこと)っておかしいよねって話だから。他にもモデルガンの雑誌とかは一社一誌でやってたりしてるところもあるんだけど、その割には広告を取るとかがなかなかうまくいかないということがあったので。
そのころ、僕ら読者の目から見ると、もちろんそういったところは見えないわけです。それでさっき女の子っていう言葉がちょっと出てきましたけど、「アニメ冬の時代」に入って、『トルーパー』の前後ぐらいですかね、女の子向け・中学生向けに誌面を変えた、みたいな印象がすごくあったんですが。
あれはね、あの当時…今でもそうなんだけど、女の子の方がポジティブなんだよねっていう言い方をして、感じがわかるかな。他の作家さんなんかと話をしても「女の子の主人公は面白いよね」というのは、当時から話が出てた。女の子は当時すごく苦しいはずなんですよ。世の中、男社会から脱皮しつつあるけど、まだ男社会的なものが残ってて。それなのに不思議に、女の子が非常にポジティブなのは面白いよねっていう、そういう感覚が出てたのかもしれないです。
もうひとつあったのは、女の子の方が…なんて言うんだろうな、あれは母性って言っていいのかな。一度好きになると、長く好きでいてくれる。そう簡単に自分の子供は見捨てないというか、そういう感じがあったんじゃないかなと思います。あの当時、ほんとにアニメは冬の時代だったので…うまくいってる作品もたくさんあるんだけれども、そのうまくいき方が、『ガンダム』とか『マクロス』[45]とかに比べりゃ小さいわけで、だからマスじゃなくて、ミニになってた。
その時代に男のアニメファンは、相対論を語って、どうしても「これがつまらない、あれはダメだ」といったマイナーな意見ばっかりになっちゃうんですよね(笑)。(女の子の場合は)本当にこのキャラが好きだからっていう…『ガンダムW』[46]がそうだったな。ああいう単純さって、今の推しの文化の走りなんだろうけど、そういう明るさが救いだったんだろうなと今は思います。ハガキを読んでてもそう思った。
男はその後からだよね。女の子が先にやってたところに、今、男も推しになって、どうしてもマイナーなイメージがあったところがなくなってきた。
それからあの当時、ニフティ[47]が出てきて、そのあとは2ちゃんねるが出てきたからね。だから、「リアルタイム性で雑誌は負けるよね」なんて話もアニメックの編集と話してたもんね。そんな感じの時代でしたね。
先ほどもありましたけど、その熱心な女の子たちをターゲットした時に、いろんなことを南波さんの時代にされてて、ゲームを取り入れてみたり、声優さんの記事がすごく増えたり、そういう試行錯誤してる感じが見えるんですよね。
本当にね、藁をもすがる、じゃないけど(笑)、何かないかっていつも探してた。だけど、もっと声優をやってもよかったなとは、今では思います。そういう雑誌もありだよねって、あの時思ってたんだけど、うちでやるとお金をかけられない。『ボイスアニメージュ』[48]とか『ボイスニュータイプ』[49]が出たでしょ。スタジオを借りて撮影したり、あれだよねっていう風に思いました。アイドル雑誌ってそうだったから。ただ、そういう発想はあったけど、それを形にする能力がなかった。最後の2年ぐらいは悔しさしかない時でしたね。もうね、何か見つけて、やっちゃえばよかったのにっていうことなのよ。
ゲームだと、PCゲームでちょっとアダルトに近いゲーム[50]、あそこはクリエイターの登竜門的なものだったので、そことやるのは結構楽しかった。ただ、やっぱり売れちゃうと、ダメなんですよ。要は、版権がかかってくる。任天堂のものをやれなかったのは、もうまさに版権料です。それからアニメの音楽関係をやってみるとかも試行錯誤したんだけど、なかなかね。レコード会社さんも、うーんっていう感じでしたから。
「東映やセーラームーンだけ」は、というのは、まさに『セーラームーン』[51]とサンライズをやったら、もう他ができない。あとはもう宣伝材料を使った記事作りしかできない。ただ、それだったら『アニメージュ』で、『ニュータイプ』でいいじゃんってなったんですよ。アニメ誌全体としては、『ニュータイプ』と『アニメディア』でかなりの部数を取ってたけど、他はどんどん落ちていったって感じじゃなかったかな。
読者層で言うと、さっきアイドルっていう言葉が出ましたけど、ファッションとか、アイドルとか、恋愛とか、中高生の女の子に刺さりそうなトピックは全然取り上げてなかったように思うんですが。
うん、そう。あえて取り上げなかったのはね、調べてみたら、危ない橋であることがよくわかった。特にファッションに関しては、ファッションゴロがたくさんいて、ちゃんとできる人間を選ぶのにはお金がいる。わかるかな、この感じ? 安心できるところとは先立つものがないと付き合えない。それに乗ってくるようなのは危ないって言われて、そりゃそうだなと思いましたよ。
探るは探ってみたんですね。
そうそう。一日中渋谷にいて、女の子の写真を撮って、っていう雑誌もあったじゃないですか。あれも危ない。だから、ファッションに関しては本当に難しいと僕は思ってたので、そこは行かなかった。だってね、集英社・講談社とかとお付き合いしているファッション編集のライターさんは知ってても、うちの値段じゃ頼めないよね、っていう話になっちゃうんで。でも、そこがね…『ALLAN』[52]って知ってます?
はい、知ってます。
『ALLAN』はBLというかアダルト系の雑誌だったけど、どっちかというとああいう雑誌が生き残ってるなっていうところはあったかな。だけどみのりはそういうのをやめちゃったからね。
なるほど、だからそういうノウハウとか付き合いみたいな、インフラがあれば。
そうそう。だから常識として、そういう時代から一緒にやってくれてるところに頼むのならともかく、いきなり持ってったらやっぱりそれはダメでしょっていうことだよね。
小林さん[53]にインタビューした時に、2人しかいないからあんまり編集会議みたいなことをやったという記憶がない、とおっしゃってたんですが。
そう。だから、 「これはこうやって、小林くん何かやりたいのある?『ラムネ&40』?うん、何ページで」 って…そのぐらいのペースでやらないと間に合わないんですっていうのが僕の感覚でね。本を出せなかった途端にそれが全部赤字になるから、それはできない。なにせあの当時(校了が遅れたら)罰金を払って出させてもらうって形だって、入れられなかったんじゃないかな。かと言って、いいかげんな記事はできる限り作りたくなかった。だから、時間をできるだけ取る、何日で作ると。基本的に僕は小林くんからの提案で「これダメ」って言ったことはないんですよ。ダメって言える状況じゃなくて、「もうやりたいことやって」っていうふうに持っていったというのが正直なところなんです。
そうおっしゃってました。ダメって言われたことがないって。
(→ その2につづく)[1] 大徳哲雄 : 月刊OUT四代目編集長。編集部員としての表記はT。詳しくは当サイトのインタビューをご覧ください。
[2] C : 月刊OUT編集部員、後に『アニパロコミックス』編集長。OUTでは投稿コーナー『ミックスサンド』などを担当した。
[3] 榎本一夫(えの) : デザイナー・イラストレーター。デザインスタジオの(有)バナナグローブスタジオの創設者で週刊少年ジャンプの読者コーナー『ジャンプ放送局』の一員。月刊OUTでも多くのイラストを手掛ける。
[4] RII : 月刊OUT編集部員。アニメ記事や投稿コーナー『投稿時代』『ファンサイクロペディア』などを担当した。詳しくは当サイトの榎野彦さんインタビューをご覧ください。
[5] OUT READER'S VOICE : '82年11月より始まった投稿コーナー。他のコーナーと異なり、アニメ作品の批評や社会批判・読者の悩みなど、シリアスで真面目な投稿が主体であった。コーナー名を変えながらも休刊時まで続いた。
[6] 落語的なコーナー : 「ミックスサンド」は'78年12月号に始まった読者投稿コーナー。お題に対してのショートショートや三題噺、アニメのパロディ投稿など、馬鹿馬鹿しくも知的なセンスが光るコーナーであった。
[7] L : 月刊OUT編集部員。OUTきっての才女と呼ばれた。編集部見学に行き、Lさんにお茶を出してもらった読者は多い。
[8] Y : 月刊OUT五代目編集長。イラストでラーメンの丼をかぶっているのは宴会芸が由来。
[9] G : 月刊OUT編集部員。映画コーナーや投稿コーナー「投稿時代」などを担当。強烈な個性に影響を受けた読者も多い。掲載謝礼の封筒の書き文字がでかかった。
[10] E : 月刊OUT編集部員。『ミックスサンド』や『花小金井かんとりい倶楽部』などの投稿コーナーを担当。のちに扶桑社『週刊SPA!』編集長。
[11] サンライズ : 機動戦士ガンダム』('79年)により、アニメ業界にリアルロボットブームを巻き起こした。'87年の社名変更(日本サンライズ→サンライズ)以降、原作付きアニメも手がけるようになるが、それでも『エルドランシリーズ』『勇者シリーズ』などオリジナル作品が多く、それゆえにアニメ誌に取り上げられることも多かった。
[12] 飯塚正夫 : 日本の元アニメーションプロデューサー。『機動戦士ガンダム』などの企画立案に関わっている。参考リンク: 『サンライズ創業30周年企画「アトムの遺伝子 ガンダムの夢」その6「上井草の黄門様」』
[13] 安彦良和 : アニメーション監督、漫画家。この連載記事時点では、ちょうど『機動戦士Zガンダム』のキャラクターデザインをやっていた時期と思われる。 OUTでは'85年8月号でインタビュー記事がある。
[14] 富野由悠季 : アニメーション監督。『機動戦士ガンダム』をはじめ、数々の傑作ロボットアニメの監督を務める。後にペンネームとして「富野由悠季」に改名。
[15] 神田武幸 : 『太陽の牙ダグラム』『機甲戦記ドラグナー』『銀河漂流バイファム』などのサンライズアニメの監督を務めたアニメーター。連載記事でも取り上げられていた通り、当時は『超力ロボ ガラット』の監督。'96年52歳で急逝された。
[16] 星山博之 : 日本サンライズ制作のロボットアニメに多く関わった脚本家。本連載では初回第2章「企画内容」にて、『銀河漂流バイファム』と対比させながら『超力ロボ ガラット』の企画練り込みの様子を説明。 '80年2月号でインタビュー記事がある。
[17] 榎野彦 : 月刊OUTライター、のちに鷹見一幸として作家に。同じく当サイトの榎野彦さんインタビューをご覧ください。
[18] 灰皿を投げる : T編集長は怒ると灰皿で殴るとか灰皿を投げる、というネタがあり、ゆうきまさみの漫画などでもよく描かれていた。そのことから、読者に南部鉄器の灰皿をプレゼントされたという逸話がある。
[19] ランデヴー : みのり書房から月刊OUT増刊号として発行された雑誌。'77年12月号から'78年9月号まで。当時サブカル路線であったOUTに対し、アニメ・SF・漫画に特化していた。「ランデブー(rendez-vous)」は、「待ち合わせ」「デート」などを意味するフランス語。
[20] よたろうランド : 読者や身近な人の失敗談を集めた投稿コーナー。'79年に始まり、少しずつタイトルを変えながらも長く続いた。略称は「よたらん」。
[21] 漫画になった : ゆうきまさみのアニパロ漫画などで、富野氏・安彦氏に怒られる、というのがネタにされていた。
[22] 井上伸一郎 : 元アニメック副編集長。'85年、副編集長として月刊ニュータイプの創刊にかかわる。後に角川書店アニメ・コミック事業部長、さらに'07年には角川書店社長に就任している。著書『メディアミックスの悪魔 井上伸一郎のおたく文化史』 (星海社新書)に当時の様子が書かれている。
[23] ふしぎの海のナディア : NHKで放送されたアニメ番組('90-'91)。アニメ制作はグループ・タック、実質的な制作はガイナックス。総監督は庵野秀明。
[24] 霜月たかなか、アニメ・ジュン : アニメ評論家。月刊OUTではアニメ・ジュン名義で『アニメ・ジュンの大発見』『アニメ・ジュンの場外乱闘』また霜月たかなか名義で『鏡の国のアニメーション』などの長期連載を持ち、辛口の評論で名を馳せた。 同一人物である。
[25] 鎧伝サムライトルーパー : '88-'89年に放送されたサンライズ制作のアニメ。聖闘士星矢の商業的成功の影響を受けた作品だが、星矢同様、女性アニメファンからの絶大な支持を集めた。
[26] 草尾毅 : 声優。'88年より『鎧伝サムライトルーパー』烈火のリョウ役、'90年より『NG騎士ラムネ&40』勇者ラムネス(馬場ラムネ)役、'93年より『SLAM DUNK』桜木花道役、など。…なんだけど、OUT的には『ビックリマン』の牛若神帝だし、『スーパービックリマン』のフェニックスにほかならない。「サイバーぁ,アアアッップ!」
[27] 佐々木望 : 声優。'88年より『鎧伝サムライトルーパー』水滸のシン役、'92年より『幽☆遊☆白書』浦飯幽助役、など。
[28] 5号連続トルーパーの表紙 : '88年10月号から5ヶ月連続で『鎧伝サムライトルーパー』の5人のメインキャラクターがそれぞれ表紙となった。イラストはアニパロ作家の岡本章。
[29] ニュータイプ : 角川書店(のちKADOKAWA)から出版されたアニメーション雑誌。創刊は'85年3月。
[30] アニメディア : 学習研究社から発行されたアニメーション雑誌。'81年6月号に創刊。事業取得により2020年以降イードから発行される。
[31] マイアニメ : 秋田書店から発行されたアニメーション雑誌。'81年3月創刊〜'86年12月休刊。
[32] ジ・アニメ : 近代映画社から発行されたアニメーション雑誌。'79年11月創刊〜'86年6月休刊。
[33] アニメック : ラポートから発行されたアニメーション雑誌。’78年12月に『MANIFIC』として創刊、のちに『Animec』と改題。'87年2月休刊。大判のアニメ誌が毎月10日ごろの発売だったのに対し、『ファンロード』『OUT』『アニメック』は月末月初だったので、当時なんとなく仲間のような感じで見てました!
[34] ファンロード : 1980年にラポートから発刊された、読者投稿を主体とする雑誌。
[35] アニパロコミックス : みのり書房発行の、アニパロ作品を中心とした雑誌。月刊OUTの増刊('82年7月臨時増刊号)として始まり、'86年1月号より隔月刊として発行、'93年3月号まで。
[36] 紙屋さん : みのり書房の親会社は朝日紙業という紙卸会社で、みのり書房の出版事業も元々は紙を売りたいというところから始まった。
[37] NG騎士ラムネ&40 : '90年-'91年に放映された葦プロダクション制作のロボットアニメ。キャラクターデザイン原案は伊東岳彦、メカニックデザインは中原れい。
[38] 超人ロック : 聖悠紀による漫画作品。OUTで'77年12月号にて特集されるが、それ以前は同人誌と貸本向けの単行本での発表であった。初の商業誌連載は'78年、OUT別冊『ランデヴー』にて。その後、'91年9月号よりOUTにて『聖者の涙』編を、のちに『ソード・オブ・ネメシス』編を連載。
[39] 太陽の勇者ファイバード : サンライズ制作、勇者シリーズのロボットアニメ第二作。'91年-'92年。ムック『太陽の勇者ファイバード‐ミラクルヒーロー伝説正伝』は'92年5月増刊号。
[40] 伝説の勇者ダ・ガーン : サンライズ制作、勇者シリーズのロボットアニメ第三作。'92年-'93年。ムック『伝説の勇者ダ・ガーン伝説遭遇篇』は'92年7月号増刊。なんと『ファイバード』のムックのわずか2ヶ月後である。
[41] あっちでやった方 : 『超人ロック』の商業誌デビューはみのり書房の『ランデヴー』('77)だが、'79年より少年画報社の『週刊少年キング』および『少年KING』で連載し、さらに人気が高まった。
[42] 三条陸 : 漫画原作者・脚本家。『DRAGON QUEST -ダイの大冒険-』原作、戦隊シリーズ・仮面ライダーシリーズ脚本など。月刊OUTではライターとして須田留貧(すたるひん)の名義で『OUTシャイダー』などのパロディ企画を手掛ける。
[43] さくまあきら : 名作ゲーム『桃太郎電鉄』、また週刊少年ジャンプの読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』で有名だが、OUT読者にとっては投稿コーナー『月刊さくま』『私立さくま学園』のさくま校長である。
[44] 堀井雄二 : 同じく名作RPG『ドラゴンクエスト』シリーズのゲームデザイナーとして有名だが、OUT読者にとってはまず第一に投稿コーナー『官報』『ゆう坊のでたとこまかせ』の構成者。
[45] 超時空要塞マクロス : スタジオぬえ原作、タツノコプロ・アニメフレンド制作によるロボットアニメ。'82-’83年。
[46] 新機動戦記ガンダムW : ガンダムシリーズのテレビアニメで、「鎧伝サムライトルーパー」で作画を担当した村瀬修功のキャラクターデザインによる美少年の主人公たちが女性の人気を集めた。
[47] ニフティサーブ : '87年から2006年までニフティ株式会社が運営していたパソコン通信サービス。 話題ごとに分かれたフォーラムがあった。
[48] ボイスアニメージュ : 徳間書店『アニメージュ』増刊の声優専門の雑誌。'94年から2002年。2009年から季刊で復刊。
[49] ボイスニュータイプ : 角川書店『月刊ニュータイプ』または『月刊少年エース』の増刊の声優情報誌。2002年創刊。
[50] PCゲーム特集 : '93年2月号の記事「PCゲーム、その魅力は…!?」、'93年10月号の「育成シミュレーションゲーム特集」など。後者の表紙は『卒業・グラデュエーション』で、のちに近永健一による漫画も連載される。
[51] 美少女戦士セーラームーン : '92〜’97年に放送された東映動画制作のテレビアニメシリーズ。武内直子の読み切り漫画『コードネームはセーラーV』を原案としたメディアミックス作品であり、ターゲットの女児だけでなく幅広い年齢層を巻き込んで社会現象化した。
[52] ALLAN : みのり書房から発行された雑誌('80-'84年)。編集長は月刊OUT三代目編集長の南原四郎。「耽美」をコンセプトに、美少年にまつわる漫画・小説・記事などが掲載された。
[53] 小林治 : 月刊OUT編集部員。誌上での名前は「M」。詳しくは当サイトのインタビューをご覧ください。