月刊OUTって、何だったのかな? 月刊OUTって、何だったのかな?

かつて「月刊OUT」というアニメ/サブカル誌がありました。
元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
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インタビュー:大徳哲雄さん 第二回(その2)

公開日:2026年4月26日


アニパロ作家の登場
「アニパロに特化した人たちが出てきた」

「ざ・ライバル」'80年4月号に掲載された、ゆうきまさみによるガンダムのパロディ漫画。ゆうきの商業誌デビュー作であり、4ページの漫画のうち最初と最後の2ページだけが掲載されたことでも有名。この掲載されなかった2ページは2020年の「ゆうきまさみ展」で展示された。この号の特集は「ガンダム特集Part2」で、評論家によるガンダムの評論や読者によるパロディの投稿などがまとまっているが、「ざ・ライバル」だけは後ろの方にポツンと離れて掲載されている。

あとね、ゆうき(まさみ)くん[16]の登場もでかいんですよ。この「ざ・ライバル」('80年4月号)って、ゆうきくんが編集部に原稿を持ち込んできた、4ページの漫画だったんです。それで…僕らは毎月の月刊誌だからさ、常にギリギリのところで本作ってるわけ。で、ある時ね、2ページ、掲載予定してた企画が埋まらないということが校了時に起きちゃって。どうするかってさ、もう悩んだわけですよ。

で、これは4ページの漫画で、ほんとは間の2ページを抜いちゃったら話が繋がらないんだけども、4ページで読むよりも間を抜いちゃった方が笑えるっていうところもあって、僕が「だったらこれ、間の2ページ抜いても面白いから載せちゃおうよ」って。それで、ものすごくいいかげんな気持ちで載せたんです。そしたらそれがすごく受けちゃったんですよ。予期してやったわけではなくて、たまたまそういう不純な動機でやったことが、受けてしまったっていうことも、1つのきっかけとしてはあります。あり得ないというか、絶対にやっちゃいけないことなんだけどね。

本当に、2枚でも面白いっていうか、むしろその方が面白いっていうのが、目のつけどころですよね。実際、そのオチのインパクトがでかくなって。

『文藝別冊』のゆうきまさみ特集で、吉田戦車さんが高校生の頃にOUTの読者で、ゆうきまさみさんのアニパロ、まさにこの「ざ・ライバル」に衝撃を受けたって書かれてるんですよ。[17]

これね、吉田戦車さんも書いてくれてるんだけど、誰だっけな、他の有名な漫画家さんでも書いてる人がいましたよ。だから相当インパクトがあったみたい。

きっとその人たちは「これやっていいんだ!」って思ったと思うんです。それはサンライズに対してやっていいということではなくて、その当時のアニメ好きの中高生として、「アニメで遊ぶのにこういうやり方があるんだ、それアリなんだ」って。大げさに言えば人生観が変わったんじゃないかと想像しますし、吉田戦車さんもそんな感じのことを書かれてるんです。だから、それは期せずして、たぶん業界のその後の流れを少し変えたんじゃないかと。

と思いますよ。ゆうきくんのこの漫画がなければ、その後のアニパロ漫画っていうジャンルが、あそこまで隆盛しなかったと思いますよ。そういう意味では、最初の一撃的なものだったんですよ。

さっき出ましたけど、ガンパロじゃなくて、最初のアニメパロディ特集は'80年7月号なんですね。で、この頃はアニパロというのはアニメをパロディとした漫画であり、小説であり、それをまとめた特集なんです。それは当時すごくインパクトがあった。ところがその後、ただ漫画や小説を集めただけではなくなって、もうひとひねりして、テーマを持ってやるとか戦争と絡めたりとか、そうなっていくのは、編集部の方も成熟してきて、また違うことをって、常に考えてやってたということなんでしょうか。

それはもちろんありますね。それと、それこそ浪花愛さん[18]とか岩崎摂さん[19]みたいな、ある種アニパロに特化した漫画家みたいな人たちが出てきたから。彼女たちは確か二人とも持ち込みだと思いますよ。「こんな漫画描いてるんですけど」って編集部に持ち込んできて、「これ面白いね」って。不思議なものでさ、たまたま浪花愛が出てきたら岩崎摂が出てくるみたいな、常にセットで出てくる。それでライバル関係でもないんだけど、お互いに刺激し合って、どんどん面白くなっていくっていう、そういうのってあるんですよね。

見てると、ちょうどこの号で、その後のアニメパロディをしばらく支える人たちが、一気に出てくる。留止さん[20]と佐藤志生さん[21]のコンビの小説も、このへんから始まっている。その少し後にはやぎざわ梨穂さん[22]も出てくるし、他にも色々な人たちが出てきて。

それはコミックマーケットが、本当はいわゆる商業漫画誌じゃない漫画を売る即売会だったものが、アニメ・アニパロの同人誌・ファンジンのマーケットみたいになってすごく盛り上がっていっちゃったというのもちょっとあるんだけどさ。

この人たちはOUTでパロディ特集をする前から、そういうところでこれをやってたんですよね。

やってましたね。

それはアンダーグラウンドで狭い集まりでやってたものを、OUTが取り上げて、それがばーっと広まった、みたいな。

ただ、ある意味でアニパロ作家にとどまった人と、ゆうきくんみたいに、そこからオリジナルの漫画でも成功するような人も出てきたというのもあると思うんです。僕らはその後、『アニパロコミックス』[23]っていうのも出したんですよ。あれは創刊した時は僕が創刊編集長なんだけども、Cさん[24]がその後を引き受けてやってくれて、雑誌のジャンルとして成立しちゃったっていうふうに形としてはなった。

でも僕としてみれば、パロディをここまで面白く描ける人っていうのは、ほんとに力があれば、オリジナルでもぜったい成功するだろうなって思ってて。ゆうきくんの場合は、明らかにそうでしたね。画力の面も、作品としての構成力もそうだし、いつか必ずパロディではないところでも、漫画家として成功するだろうなっていう予感は、やっぱりありましたね。

前回のインタビューでも話したけど、だから僕はアニメパロディではない、オリジナルの雑誌を作りたかったんですよ。OUTを、アニメ情報とかパロディではなくて、オリジナルの漫画とか小説とかそういうものを載っけられる雑誌に持っていきたいという気持ちはすごく僕の中にはありましたね。ただ、それをやったからって成功したかどうかはわかりません。難しかったんじゃないかなって思いますよ、今から思えば。

『アニパロコミックス』はもともと増刊で出して、これはいけそうだっていうことで、だんだん定期刊行になっていったんですよね。

うん、最初すごく売れました。最初はたしか読み切り増刊的な形ではじまったと思いますよ。

そこで、オリジナルで読み切りの増刊を出そうっていう話にはならなかったんですか。

それはなかったな。変にオリジナルみたいなものを意識して中途半端に入れちゃうと、やっぱり出版物としてのインパクトが薄れるだろうなって思ってたから。まずアニパロで成功してっていうのがあったの。アニパロで成功して、次にオリジナルって、段階的にやってくのもいいんじゃないかなって思っていましたけどね。

パロディ記事の過激化
「お叱りを受けるだろうなって思っていたらやっぱりお叱りを受けました」

「病気の人のためのアニメ・パロディ大特集」'81年3月号。表紙は吾妻ひでおで、セーラー服の美少女が「また値上げしてごめんなさい…でもOUTを見捨てないでね!」と語りかけている。夏目房之介・ゆうきまさみ・浪花愛・岩崎摂の漫画のほか、留止&やぎざわ梨穂、留止&佐藤志生の小説、南田操&桃原郷のパロディ・シナリオ、読者によるアニメ感想文のパロディ編など。さらに東工大アニメ研による「機械仕掛のABCD」という、各種超合金シリーズや女児向けのおもちゃを使ったフィルム・ストーリー的なページがあり、「OUTはまたアホをやりました」と書かれている。内容は、妊娠してしまった高校生の闘士子(ゴーディアン)が、両親(ボルテスV・イデオン)の反対を押し切って出産し(ルンルン・ララベルなど多数)、家族が愛に目覚めるというもの。「出産シーンが気色悪かった」(5周年記念号、不完全版OUT大事典より)。

「アニパロ特集の歴史」みたいになってきましたが、これが'81年3月号で、吾妻ひでおさんの表紙の号ですね。

はい、この号は売れましたよ。

ここで初めて、東工大のアニメ研の、おもちゃを使ったパロディストーリーみたいのが出てくるんですが、この人たちは、どういう経緯で関わるようになったんでしょうか。

ははははは、これね(笑)。東工大のアニメ研はね、「こういうことをやってるんですけど」って、自分たちが今までやったパロディ企画みたいなものを編集部に持ってきてくれたんです。それがすごく面白かった。それで「OUTでやりたいんです」っていう彼らの意思を感じたので、「じゃあ一緒に組んでやろうよ」って。やっぱり大学生だから、そんなにいろんな意味での余力はないわけじゃないですか。だから雑誌、OUTでやればお金もかけられるし、それなりにいいものができるように準備してあげられるからって。それがきっかけ。

ただ、やっぱり内容が結構ね、ハードっていうか、ラジカルっていうか、やばいんですよ、本当に。だから、これなんかは、おもちゃを作ってる会社からお叱りを受けるだろうなって思っていて。…お叱りを受けました、やっぱり。お叱りを受けましたけど、「じゃあ訴えてやるぞ」っていうふうには、言ってこなかったです。それは本当に僕らとしても「そうですよね、申し訳ありませんでした。ちょっとやりすぎちゃいました」って。だから、理論武装して突っ張るっていうことはしなかったです。ある程度、覚悟はしていたんだから。さっき言ったギリギリのところってのは、そういうところなんです。「商品イメージを損なうじゃないか」って言われたら、ある意味でその通りで、「損なってます、本当に申し訳ないです」と。

で、また彼らもね、そういうギリギリのところをついてくるんですよ。その後も、『愛國戦隊』みたいなさあ、右翼をおちょくるような方向性の企画を持ってくるわけですよ('82年2月号『近未来戦争19Z5』[25])。だから、僕自身はすごく面白いと思ったよ。だけどその、右寄りの人たちが文句を言ってくるかなって思っていたけれども、実はそういうところからの、抗議みたいなものは全くなかったです。

それは、馬鹿馬鹿しくてそんなものに抗議してもしょうがないよ、というのもあったのでは?

それもあったと思いますよ。「お前らごときに文句言ったってしょうがねえよ」っていうさ。そういうゴミ扱い(笑)みたいなところだったのかもしれませんね。

「初笑いアニメパロディ大特集」'82年2月号。表紙は吾妻ひでお・岩崎摂・浪花愛。「テレビOUT」の1日、と題し、テレビ番組に見立てたアニパロ記事が並ぶ。記事スタッフは岩崎摂・竹谷靖・東工大アニメ研・浪花愛・南田操・やぎざわ梨穂・留止。愛・摂合作のアニメキャラによる忠臣蔵や、『じゃリン子チエ』のキャラによる『STAR WARS』パロディのほか、戦争アニメ論争の発端となった「近未来戦争19Z5」や『セーラー服と機関銃』のパロディである「モンペと竹槍」、早大アニメ研の「アニコムZ」などの記事も。また「豪華OUT執筆陣!!夢の競作・競演」という記事では、「セイラがセールスマンとして訪れたら?」「アムロがセールスマンとして訪れたら?」というお題に対して、記事スタッフのほか堀井雄二や柳沢健二、さくまあきらなども執筆している。

いまの話の「近未来戦争19Z5」は'82年2月号で、軍国主義的なものをおもちゃを使ってパロディにしながら、そのうちの一コマ、胸をはだけたリカちゃん人形が旭日旗を持って、ロボットたちを戦場で率いているというこの場面が、何も書いてないけどドラクロワのフランス革命の絵(「民衆を導く自由の女神」)のパロディなんですよね。で、僕は今になってこれを見て爆笑したんですよ(笑)。この馬鹿馬鹿しさの裏には知性があるじゃないですか。いや、これは素晴らしいなと。

うん、さすが東工大なんです。だからパロディの記事もさ、けっこうラジカルなんですよ。で、こんなことやりながら、知性がバックにあるんだなっていうところは感じられるわけですね。

この人たちとの打ち合わせの時に、何十人も現れて驚いたっていう話が載ってました。[26]

そうだったかもしれない。だから撮影する時は何十人とは言わないけども結構な人数が来てやってましたからね。だってこういうジオラマを作るのだってけっこう手間がかかるからさ。

その後、そこからライターになった人とかはいないんですか。

いやさすがにね、東工大ですからね。彼らも身分を隠してたってわけじゃないけど、OUTでこういうことをやってましたってことを言ったりなんかはしてないんじゃないですか。おそらくみんな大企業か何かに入ってると思います。

早稲田アニメ研もそうだし。早稲田アニメ研は花小金井くん[27]が連れてきた。彼は早稲田のアニメ研ですから。 あそこの企画からその後、アニメ業界で作家として活躍する方たちが出てくるんですよ。そういった感じで、南田操くん[28]とか、霜月たかなかさん[29]とか、いろんな作家が出てきた。花小金井くんもそうだけど、そういうパロディ企画をすごく得意とする書き手もすごく出てきたので、それはもう積極的に取り上げていきましょうよと。

この号ではいわゆるアニパロ専門の作家だけでなくて、さくまあきらさん[30]とか堀井雄二さん[31]、ヤナケンさん[32]にもガンダムをネタにしたアニパロ小説を依頼して、競作してますね。

さくまさんとか堀井さんとか柳沢くんとか、今でこそすごいメジャーな人になっちゃってますけども、しょせんはOUTの(笑)、ライターでしたからね。

ただこういうのもね、表面的には仲良くにこやかにやってるって思うかもしれないけども、僕らとの間に摩擦もなかったわけではない。やっぱり考え方の相違みたいなものがありますから。みんなノリノリでやってる人ばっかりかというと、そうでない部分もあったりするんですよね。だって、アニパロでもラジカルなことをやってっちゃうと、あるていど批評性が入っちゃうんですよ。

ちょっとこれはやりすぎだからもうちょっと抑えてくれ、みたいな?

そういうのもあるし。そもそもそういう題材をそういうふうに取り扱うこと自体、ファンの中でも認める人と認めない人もいるじゃないですか。

パロディっていうのは、どうしてもカッコいいものをカッコよくなくしちゃうから、それを嫌う人は一定数いるんでしょうね。

そうです。かなりいたと思いますよ。ただ、アニメファンは意外とそういうことに対して寛容というか、許してくれたところはありますよね。パロディにしたからって作品を貶めてるわけじゃないなって思ってくれて、解釈してくれる人がすごく多かったと思いますけどね。

試行錯誤の時代
「同じ方法論で続けるとインパクトが弱まっていっちゃう」

「アニメ・パロディ大特集 "OUT学園"」'82年10月号。「OUT学園」の学園案内に始まり、各科目になぞらえたアニパロが並ぶ。東工大アニメ研によるおもちゃを使った「日本史」、花小金井による「世界のモビルスーツ産業」「ロボットの進化と進化論」、倫理社会で榎野彦・花小金井の『カリオストロの城』のパロディ小説、片桐由乙のアニソンを題材とした音楽、など。他にもゆうきまさみ・浪花愛・岩崎摂・やぎざわ梨穂らに加え、樋口紀美子・番武・巣田祐里子など、投稿者からアニパロコミックスの作家陣になる面々の漫画を掲載。

('82年10月号を手に取って)これ、安田講堂[33]ですか。忘れちゃってたよ。そうなんですか。こんな表紙があったか。

安田講堂の写真をバックに浪花愛さんと岩崎摂さんによる、セイラさんとブンドル[34](?)が描かれているという、これもすごいなと思いましたけど。この号のアニパロのテーマは「OUT学園」で、「受験のOUTシリーズ」と題して、学校の教科をネタにアニパロやってるんですね。

とにかくね、読者がみんな、ただの読者じゃないですから。みんな頭もいいし、一癖も二癖もある人たちばっかりなので、その人たちを笑わせるっていうのは、送り出す側の力をそうとう持ってないと、負けちゃうんでね。

この少し前に花小金井さんが登場して力の入った記事を書いてて、榎野彦さんももうこの近辺には顔を出してたんですかね。

面白いアニパロを書ける人っていうのは、基本的にインテリジェンスがある人なので、まともなものを書かせても、それなりのものをあげてきますよね。ただ、パロディばっかりやってると、色物的な印象ってのがどうしてもつきまとっちゃうから、まともに扱ってくれないみたいなところは、なきにしもあらずでしたけどね。

「初笑いアニメ・パロディ大特集」'83年2月号。雑誌『ぴあ』をもじった「ぱあ」というタイトルページのもと、
・プレイアウト(プレイボーイ):「こんな女の子にはこんなファッションで声をかけたい」(榎野彦・花小金井・浪花愛」
・週刊OUT(週刊朝日?):「ついに逮捕!暴かれる編集長の犯罪」(榎野彦・花小金井・岩崎摂)
・誰も書かなかった年末年始・日本の常識のウソ(柳沢健二・えびなみつる)
・激動のマンガリーグ(プロ野球選手・江川卓の空白の一日事件をネタにした小説。ゆうきまさみ・花小金井)
などの記事が並ぶ。

これは'83年の2月号ですけど、このあたりから少しカラーが変わってきた。’79年から、3〜4年アニパロ特集をやっていて、だんだんアニメというよりも世相とかメディアのパロディであったり、ゆうきまさみさんと花小金井さんが組んで、江川投手の疑惑の1日[35]をネタにしたパロディ小説を書いてたりして、これはもはやアニパロでもなんでもないんですよね。だからアニパロ特集と言いながら、アニパロがしづらくなってきたのかなと思ったんです。

それはね、だんだんしづらくなってったっていうことはありますね。やっぱりマンネリ化っていうか、インパクトって、同じ方法論で続けていくと弱まっていっちゃうんですよ、だから、違う方法論とか題材を見つけ出そうと思って、試行錯誤するんですよね。そういう過程だと思いますよ。

この号にゆうきまさみさんの『ヤマトタケルの冒険』[36]の連載予告みたいな話が載ってますが、ちょっと面白かったのが、「アウトの読者はアニパロだけを求めているのに、こんなオリジナルなんて描いて受けるのか」みたいなことが書いてあるんです。

そこはさっき僕が言った、「アニパロだけじゃなくてオリジナルもやっていった方がいい」って思ってた部分で。読者は「アニパロでいいよ」って思ってる人たちが、かなりいましたよね。でも僕は、ゆうきまさみの絵と、漫画の総合的な力を見た時に、「この人はオリジナル漫画でも行けるだろう」って判断をしたから。彼は歴史がすごく好きで、詳しいんですよ。そういう歴史漫画みたいなものを描きたい、みたいなことを自分でも言ってたので、だったら「パロディじゃなくてオリジナルで描いてみれば、それだったらOUTに載っけることも可能だよ」という話だったと思います。そのへんは正確には覚えてないんだけどさ。

例えば力押し三五郎くん[37]だって、読者の投稿者ではあったけども、別にアニパロとかはあんまり関係ないわけじゃないですか。ただ、漫画として見た時に、この人はオリジナルでやっていけるだろうなっていうことはすごくありましたね。だからいろいろと声をかけていたんですよ。

まいどくんとアウシタンの確立
「編集部からすると予想外だった」

「OUT創刊7周年記念企画 OUTアイキャッチャー・デザイン入選作発表!」'84年5月号。応募総数1070通、応募デザイン総計約1200点。最優秀作の選評は「OUT以外では絶対に選ばれないであろう超オリジナリティ。頭の上の虹模様のパッパラパー感が爆笑を誘い、OUTにぴったりのイメージ。」受賞の連絡を受けた作者も「ウソでしょ、冗談でしょ、OUTだからまたかついでるんでしょ?」としばらく信じられなかったとのこと。なお「まいどくん」の名称は別に誌上で公募され、'84年8月号で発表された。

ちょっと面白かったのが、'84年の10月号の編集後記に、「昨今の本誌の企画の行き詰まり」ってTさんが書かれてるんですね。[38]

それはね、毎月ずっとやってればね、行き詰まりますよ。

いや、とは言いながらですね、ちょうどこの'84年あたりから、また別の方向で過激になってきて。ひとつは「まいどくん」のデザイン公募ですね('84年5月号)。アニパロとは関係ないですけど、これはやっぱりちょっとおかしいじゃないですか。

これはね、とにかくOUTのアイキャッチデザインを欲しいということになって、じゃあ読者から募集しようって募集した。そしたら、まいどくんに関してはもう全員一致に近いぐらいで、みんなで爆笑したんです。そのインパクトで決まっちゃったと思いますね。これに似たようなアイキャッチデザイン、以後、他にもずいぶん使われてますよ。

ここに出ている他の候補作も、なかなかいいのがあるんですけどね。本職のデザイナーさんからの応募もあったりして。

そうそう。でもまいどくんはね、本当に受けたね。

いや、このセンスは本当に素晴らしいです。この時点ですでに完成されてて、この応募された絵から、その後ぜんぜん変わってないですよね。

なんでアイキャッチャーを作ろうってなったんですか。

やっぱり、これがOUTだっていうことを一発で絵として表せるものが欲しかったっていう、それこそ本当にアイキャッチですよね。じゃあこの段階で募集しようよっていうことになったんだと思います。だからOUTのタイトルロゴもさ、変遷してるでしょ。それは要するに迷いの現れなんです。やっぱりOUTっていうロゴだと弱いなっていうのがあって。このまいどくんだって、これを表紙にしちゃったわけじゃないですか(’84年12月号)。

このデザインの、立体物みたいなものを作ったんですよ。ここ(頭の上の虹の部分)がさ、電飾でキラキラ光ったりするようなのを、けっこうお金をかけて作ろうとしたんです。ところがうまくいかなかったんだ。それとさ、電飾で光っても、テレビとか映像だったらいいけどさ、静止した絵だとインパクトが伝わらないじゃないですか。だから、うまくできなかったですね。

その後、このデザインで読者プレゼントのバッジを作ったんですよね。

そうです。

古株の投稿者はみんな未だに持ってますよね。後期のOUTでは、まいどくんを使ってないバッジ[39]が投稿の掲載謝礼になってたことがあって。芦田さんの絵なんですけど…ちょっと芦田さんには申し訳ないんですが、僕はあんまり嬉しくなかった(笑)。まいどくんの方が嬉しかった。

そう、俺もね、あれはやっぱりそう思った。

僕は、芦田さんのバッジもらうのが嬉しかったけど。あと、まいどくんの鉛筆[40]をくれたこともありました。まいどくんの白いバッジは、薄いプラスチックだから、けっこう割っちゃってね。

そう、だからその前の、まいどくんの缶バッジは我々ちょっと後の世代の投稿者からしたら、羨望のグッズなんですよね。

だから本当にこれで、ひとつの文化的な集まりとして結束感みたいなものが出たんだろうなっていう気がします。

うん。とにかくこれ持ってれば、アウトの読者だな、ファンだなっていうことは、一発でわかりますからね。

それがまた読者集会・アウシタン集会とちょっとリンクしてくるかな。OUT読者であるということの、一体感の表れですよね。

アニメファンとして雑誌を読んでたっていうのから、雑誌のファン認識をすごく強く持つようになった。

アウシタン集会の告知がOUTに載って、駅にみんな集まるじゃないですか。知らない人ばっかりいるんですけど、誰かがまいどくんの旗か何か持ってるんですね。そうすると、「ああ、やっぱりこの怪しい人たちが、それなんだ」みたいな。

だから、デザインもあるんだけど、「アウシタン」[41]っていう存在が、確立されてきた。それもすごくあると思うんです。読者同士で繋がって、ある種の集団をなしていくっていう流れが起こっていたわけじゃないですか。特に地方の人たちにとって、自分の身の回りにはOUTの読者・理解者は少なかったかもしれないけど、同人誌やってたりOUTに投稿してたりっていうことで、「同じ感性を持ってる人がいるんだな」って繋がってくれた。それが、アウシタン集会っていう形になって、絆を持つようになったっていうことは、すごく感じますね。それはもう、僕ら編集部の側からすると、予想外というか、計算してたことでは全くなかったのでね。

びっくりしたのは、あるとき編集部見学日みたいなものを設けたんですよ。読者から「編集部に遊びに行きたいんですけど」みたいなことはたまに言われていて、いいですよって受け入れしてたんです。そしたら、ある時からその希望者がバーッと増えちゃって、仕事に支障をきたすようになっちゃったんです。なので、見学日を設けて、その日だったら来ていいですよっていうことにして、それでもけっこう押し寄せてきちゃって、大変だったんですよ。

で、OUTっていう雑誌の編集部に読者の人たちが見学に行くんだっていうことを聞きつけたNHKの人がいて、電話がかかってきて、「取材させてくれませんか」って言うんですよ。それは「もしよろしければ別にいいですよ」って答えたけど、NHKは来なかったけどね。それぐらいの流れにはなりましたよね。

僕も編集部に行きました。高校時代の夏休みで地方から東京に出てきた時に、いま考えると本当に非常識だなって思うんですが、全然アポなしで行ったんです。そしたら編集部に誰もいなくて、Lさん[42]だけいらして、すごく親切にお茶を出してくださって。その次は往復ハガキ出して…あのころ('89年前後)見学日ってなかったと思うんですけど、往復ハガキくれたらいいですよみたいなルールがあったんです。でも東京の読者たちだったら常連みたいに編集部に来てる人たちがいたんじゃないですか。

常連の投稿者も来てたし、見学常連みたいなものもいたんですよ。そこで見学常連の人たちは、「投稿者の誰々さんはあなただったんですね」って、そこでまた繋がりができてね。だけどそれがどんどん広がっていっちゃって、編集部としてはさ、ありがたい反面、迷惑だな、という部分もあってね。

あるとき、見学日なんか無視していきなり電話かけてきて、「いまお茶の水にいるんですけど、これから見学に行っていいですか」って言うから、「いいよ」つってさ。で、「どうやって行ったらいいんですか」って言うんだ。その頃はいまみたいにスマホの道案内とかないから。

「お茶の水の駅を出るとね、お茶の水橋口と聖橋口があるから、聖橋口の方に行って、橋から下を見ると神田川が流れてるから、その神田川に飛び込んで、神田川に鯉がいるからさ、その鯉に聞いてごらん」

ガチャンと切っちゃった(笑)。それ、本当の話なんですよ。そのぐらい大変だった。

はははは。その読者は来たんですか。

その後、もういっかい電話がかかってきました。こっちも「ごめんね」って言って(笑)。いや、あるいは僕じゃない人が出て教えてあげたのかもしれないけど。まあでも、その人も笑ってましたけどね。だけどさ、自分で住所とか場所ぐらい調べて来なさいよと思わないですか?

いや、思いますよ。思うし、投稿者だったらみんな住所は暗記してましたよね。

本当だよ。まあ、そんなようなこともあるぐらいですから。読者同士の繋がりが形成されていったっていうことですよね。

'83年の夏のコミケットで、当時の投稿常連、今のなかむら治彦さんがコミケでみんなで記念撮影しようって言って読者が集まったという、それが僕らが追えている読者の集まりの最初で、第一回関西アウシタン集会[43]っていうのが、'84年の6月号にレポートが載ってるんです。だからちょうどこの'84年ぐらいから、読者にアウシタンとしてのまとまりみたいものが出てきたんでしょうね。

→ その3につづく

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大徳哲雄さん第2回( 12 | 3 | 4 | 5 )

[16] ゆうきまさみ : 漫画家。代表作に『究極超人あ〜る』『機動警察パトレイバー』『新九郎、奔る!』など。商業誌デビューは本文中の『ざ・ライバル』。OUTでは数多くのアニパロ作品のほか、『ヤマトタケルの冒険』『時をかける学園(ねらわれたしょうじょ)』などを連載。

[17] 我が青春のゆうきまさみ(吉田戦車) : 河出書房新社刊・文藝別冊「ゆうきまさみ」より。「高1で『ガンダム』放映。そして高2。OUT誌上でゆうきまさみのデビュー作と出会う。もう勉強も部活もおろそかにするしかなかった。だってこんなにおもしろい、濃い世界が世の中にはあるんだもの」と書かれている。「月刊OUTにおける『セイラさんのヌードピンナップ』の衝撃は今でも忘れられない。」という記述も。

[18] 浪花愛 : 漫画家。『シャア猫のこと』や『五右衛門金魚』などのアニパロ漫画を連載する。「浪花愛のカマトトサロン」という副題が柱部分についていた。

[19] 岩崎摂 : 漫画家。増刊の編集アルバイトからOUTに関わる。連載アニパロ漫画『MY HOME ギジェ』には「岩崎摂のJUST笑タイム」と書かれていた。

[20] 留止(るしい) : パロディ小説家。数多くのアニパロ小説をOUTに執筆する。'80年11月号掲載の『ムーミン谷の赤い彗星』は、シャアとノンノンが…という悶絶必至の内容。

[21] 佐藤志生 : 漫画家・イラストレーター。留止とのコンビで多くのアニパロ小説のイラストなどを手掛ける。当時のアニメ同人誌界では有名な存在だったとか。なお『不完全版OUT大事典』('82年5月号)によるとOUTへのデビュー当時は高校生だったようだ。

[22] やぎざわ梨穂 : 漫画家。月刊OUTでは記事やアニパロ小説のイラストのほか、『戦場で…!?』の連載など、数々のアニパロ漫画を執筆する。

[23] アニパロコミックス : みのり書房発行の、アニパロ作品を中心とした雑誌。月刊OUTの増刊('82年7月臨時増刊号)として始まり、'86年1月号より隔月刊に。

[24] C : 元月刊OUT編集部員、後に『アニパロコミックス』編集長。OUTでは投稿コーナー『ミックスサンド』などを担当した。

[25] 近未来戦争19Z5 : 東工大アニメ研によるおもちゃフィルムストーリー、'82年2月号。北海道に侵攻したB国軍(兵士はモビルスーツ)に抵抗し、義勇軍に身を投じた女子高生ひとみ(リカちゃんのフレンド人形)の姿を描く。タイトルは当時制作中で「好戦的である」として物議を醸した劇場アニメ『FUTURE WAR 198X年』のパロディか。なおダイコンフィルム制作の『愛國戦隊大日本』の上映は'82年8月のSF大会。

[26] 何十人も現れた : ’82年5月号「不完全版OUT大事典」にて、「初めての打ち合わせでお茶の水の喫茶店サン・ロイヤルに20数名で押しかけてきたのには編集部もぶったまげた」との記述が。

[27] 花小金井和典 : ライター。'80年代中頃にアニメ記事や数々のアニパロ小説を手がけ、投稿コーナー『花小金井かんとりいくらぶ』('85-'88年)は人気を集めた。

[28] 南田操 : アニメ評論家。OUTでは'81年6月号から'85年5月号まで『南田操のアニメブレイク』、'85年3月号から'88年4月号まで『南田操のアニメDJ』を連載。

[29] 霜月たかなか(アニメ・ジュン) : アニメ評論家。月刊OUTでは『アニメ・ジュンの大発見』『アニメ・ジュンの場外乱闘』また霜月たかなか名義で『鏡の国のアニメーション』などの長期連載を持ち、辛口の評論で名を馳せた。

[30] さくまあきら : 名作ゲーム『桃太郎電鉄』、また週刊少年ジャンプの読者投稿コーナー『ジャンプ放送局』で有名だが、OUT読者にとっては投稿コーナー『月刊さくま』『私立さくま学園』のさくま校長である。

[31] 堀井雄二 : 同じく名作RPG『ドラゴンクエスト』シリーズのゲームデザイナーとして有名だが、OUT読者にとってはまず第一に投稿コーナー『官報』『ゆう坊のでたとこまかせ』の構成者。

[32] 柳沢健二 : ライター。OUT編集部員時代の名称は「Z」。初期のお笑い企画のページを多数執筆。'79年から「ヤナケンのショート・ショート100本勝負!」'83年から'85年まで「ヤナケンの100本らんど」(エッセイ)を連載。

[33] 安田講堂 : 東京大学の本郷キャンパスにある講堂。'68年から'69年にかけて全共闘と機動隊の衝突の現場となった。ちなみに’82年当時は内部が荒廃したまま閉鎖されていた。

[34] レオナルド・メディチ・ブンドル : 葦プロダクション制作のロボットアニメ『戦国魔神ゴーショーグン』に登場する敵役の美形キャラクター。声は塩沢兼人。

[35] 空白の1日事件 : 野球選手・江川卓の'78年の選手契約の際に、野球協約の条項の隙をついて、ドラフト会議の前日に読売ジャイアンツと入団契約をしたことを発端とした一連の騒動。江口寿史「すすめ!!パイレーツ」などでもギャグのネタにされた。

[36] ヤマトタケルの冒険 : ゆうきまさみによる漫画作品。'83-'84年、月刊OUT・アニパロコミックスで連載。ヤマトタケル伝説を下敷きに、古代日本を舞台にしたオリジナルストーリー。近親相姦・兄弟殺しなどを題材とし、プロローグには「とてもインモラルなマンガです。親の目のとどかないところで読みましょう」との表記が。

[37] 力押し三五郎 : 漫画家、元投稿者。OUT誌上でバイク漫画『鬼屋繁盛記』を連載('87-'88年)。詳しくは本サイトの力押し三五郎さんインタビューをご覧ください。

[38] ’84年10月号の編集後記 : 「…加えて昨今の本誌の企画の行きづまり。まいど君の布袋を見つめながら、二十代の大半をOUTに捧げつくした僕にとって青春とは? 人生とはいったい何だったのか? と考えてしまうことがよくあるのです。(T)」

[39] 芦田さんの絵のバッジ : '90年5月号から読者投稿への掲載謝礼に使用された、芦田豊雄デザインによる女の子のキャラクターのバッジ。キャラクターの名称は「メルナちゃん」。

[40] まいどくん鉛筆 : '89年3月号から読者投稿への掲載謝礼に使用された、まいどくんがプリントされた鉛筆。多くの投稿者がこれを使って受験した。つい先日、実家で両親が普通にメモ用に使っているのを見かけたKNは悶絶した。

[41] アウシタン : アウト読者のこと。'79年12月号のアンケートカード「あなたはいつどこでOUTを読みますか」という質問への読者の回答「人知れずこっそりと、それが隠れアウシタンの運命なのだ」が由来。女性の呼称「アウシターナ」は'85年4月号の同じくアンケートカードへの回答から。

[42] L : 月刊OUT編集部員。OUTきっての才女と呼ばれた。編集部見学に行き、Lさんにお茶を出してもらった読者は多い。

[43] 第一回関西アウシタン集会 : '84年3月に大阪で開催された、初のアウシタン集会。内容はしりとり歌合戦、バトル・フルーツ・バスケット、必殺!花いちもんめなど。なお同日に東京でもアウシタンお茶会が開催された。


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