元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
公開日:2026年4月18日
僕らもいろんな方にインタビューしていて、その方々にどの人に聞いたら面白い話を聞けると思いますか?って毎回お聞きするんですけど、皆さんが「南波さんがいちばん苦労した人だから、南波さんに聞くといいよ」って推薦してくださるんです。
それは、ありがたいなっていうか、慰労してくれてるんだと思いますね。ただ、「お前もっとしっかりやれよ」っていうのもあったんだろうな。本当にね、めちゃくちゃ働いてた、働くしかなかったっていう4年間ぐらいだったよね。じゃないと、年に12冊に、プラス増刊1、2冊って…(出せなかった)。小林くんもずいぶん働いてたけど、2人とも泊まりはやめようねって話をしたと思ったんだけど、覚えてないかな。ああ、RIIさんはもうずっといた、住んでたので、反面教師ですね。
屋上に住んでらしたんですよね。
ペントハウスね。倉庫なんだけど、あそこにマットレスひいて。怒られた。すごいよね。普通はできないよね。ただ、会社としてはビジネスだし、僕たちは、本作りというのは仕事なので。趣味でやってるならともかく、というところをどうしようかというのは、永遠の悩みですよね。だからずっと、このままじゃダメだ、の連続でした。ただ、困ったことに、やってることは楽しいんですよ。
アニメのスタジオに行って、アニメーター・キャラデザに、脚本家…そういう人に話を聞いて知見は広まるし、いろんなアイディアの話を聞くのは楽しいんですよね。富野さんから何やってんだって怒られた時も、怒られながら楽しかったり。
ガイナックス的な遊びだと思ったら、ガイナックス[54]からも怒られたっていうのもあったな。あれは、Y編集長の時代。Yさんと2人でガイナックスに行って、『ナディア』の記事で、赤井さん[55]に怒られたな。こういう批判をされると困る、みたいな話をされた。だけど、とかなんとか言いつつ、ゼネプロ[56]では『ロック』のアニメ作品を結構批判してたんだよね…っていうのが愚痴です(笑)。
岡田さん[57]とか今ネットなどでいろんなことを好き勝手に言ってますが。
岡田さんはね、あれは実は、非常に真面目なんだよ。だから、「よくわかりました」って感じでやってる。そういうスタンスはわかる。
今、たいへんだけど楽しかったっておっしゃってましたけど、やっぱり南波さんはOUTが好きだったんじゃないかなと思いました。
うん、それはもう大前提です。OUTって変な雑誌だけど、やっぱり読者がちゃんと反応してくれてる間は本当にそれも楽しかったし、ありがたかったです。ちょっと斜に見た切り口で、それを肯定的に書けるのって、OUTだけだったから。それは良かったんじゃないかなとは思ってますね。
それはご自分でも自負があったんですか。「これ、やれるのはOUTだけだぜ」みたいな。
そうだね。自負しちゃいけないよねっていうのはあるんだけど、それがOUTだったよなって思いますよね。からかうとかそういうことを許される範囲でどうやろうかっていうのは、さじ加減で、それが面白かったと思います。
いろんなコーナーがある中で、特に南波編集長の時代になってから、読者にとって目に見えて違うなっていうのが、芦田さんのコーナー[58]とHEGEのコーナー[59]がどんどんめちゃくちゃになっていって、それが素晴らしく面白かったんですね。
それはね、わかる。特に芦田さん[60]はね、OUTのスタンスをよくご理解してくださって、それで書いてくれてたので、面白いんですよ。それであれは芦田豊雄さんっていう人格が書いてるので他に文句を言わせないんですよね。だから、ギリギリを攻めるところは全然オーケーでやってもらってたんですよ。ただ、バランスを取ってはいけないんだろうけど、バランスを取らないことには、もうまた呼び出し呼び出しなんですよね。それは時間の無駄だと思ってたので…。
「VOICE」'89年2月号から'95年5月号まで。「OUT READER'S VOICE」('82年11月号から'88年12月号)の後継の投稿コーナー。長文の真面目な読者投稿が主体で、アニメの感想などに限らず、恋愛・いじめ・戦争問題・オタク論争など様々なテーマについて、担当編集者も巻き込んだ論争が行われた。共感・反発のいずれにせよ青少年の感受性でこれを受け止め、影響を受けた読者は数多い。N編集長の担当は'91年9月号から。
少し話題を変えて、コーナーの内容についてお聞きしたいんです。『VOICE』っていうコーナーがありましたね。大徳さんが始められて、Yさんはちょっとだけやって、その後Gさんに引き継がれて。それで編集長が変わった時から、Nさん…南波さんがずっとやられていました。あのコーナーは大変だったんじゃないかなと思うんですけど、いかがでしたか。
あれはね、大変でした。まず読むのが大変。皆さん長文が多いので。あともうひとつは、コントロールするかしないかの判断で、コントロールするにもできるのかっていう問題で大変でした。一番は、アニメとのスタンスだったり、いろんな揉める要素がある投稿がたくさん来ちゃったので、どうしようかなと思ったけど、これもOUTだったらありかなっていうところだね。その判断が正しかったかどうかはわからないけど、揉めるのは厭わずでやっちゃった。本当はもっと無難にもできたんだろうけど、他が無難だったし、無難にすぎてるのは嫌だなって思ってたところなので、唯一、このコーナーは無難じゃなくていいや、読者が怒ったり抗議してきたりするぐらいの話題も入れていいかなって思ってた。
あの文章を読んでると、南波さんは、読者の問題提起とか悩みに対してすごく真摯に答えてらっしゃって、なおかつ、そこはちょっと面白かったんですけど、常に両論を出そうとされてるんですよね。
そう、それはね、僕の性格もあるんだけれども、「偏った意見は怖いよね」っていう僕の思いがあったからだろうと思うんだよね。「いろんな見方があるよね」というのがOUTだったのに、「それあかんよ」って言っちゃったらOUTじゃないな、という感覚もあったかな。
その辺は意識されてたんですか。それともご自分の中にあったものが勝手に出てきたみたいな感じなんですか。
かなりの部分は偶然だと思います。ただ、両論を書くっていうのは、僕的に右か左かというのが言えないからっていう状況だったのかもしれない。微妙なところだね。その流れで特に僕が覚えてるのはね、批評が作品を良くするっていうのがあったんだけど、それに関しては僕は違うなと思ってたところだったので、そういうことを書いたりしましたね。
当時アニメは、もうすでに取捨選択の時代が始まってるんですよ。今ほど作品の数としては多くなくて、「ワンクール80何本もあって、全部見なくてもいいや」的な状況ではなかったけど、どうせ見るなら面白いものを見たらっていうスタンスに移っていくところだった。
それから、「批判しても面白くないんですよ」っていうのがもうひとつあったかな。批判の根っこの部分が、深掘りしきれない。最近の映画でもそうだよね。単純に「スターウォーズが面白くなくなった、なぜ」とか、そういうのをYouTuberとかがやってるけど、掘り切ってないもんな。当時もうちょっと時間があって、それを掘っていく時間があればやれたのかもしれないけど。
当時、脊髄反射の意見はやめようと思ってたので、あれは僕の中ではかなり考えて書いていました。あのコーナーはいつも最後の最後に書いてたので…「どうするかな、こんなに意見がたくさん来たよな」って。
いじめ問題とか、オタク論争とか、今おっしゃった作品批判の話とかについて、歴代担当者が、またちょっとずつスタンスが違うように僕には見えるんですけど、皆さんそれぞれのスタイルで中高生たちの中に飛び込んでいってるんですね。
こんなこと考えてる人間がいるんだっていうのは、面白かった…というか、何というか、体験でしたよね。自分が思っていないようなことを思っている人がいて、それに対して自分が意見をするっていうことの醍醐味っていうのは、ありました。大喜利みたいなことじゃなくて…。
読者との意見交換が。
うん、キャッチボールがね。だから昔は、編集部見学[61]で、わりかしRIIさんとか怒ってたりしたけどね(笑)。
そうなんですか。
(見学にくる)読者に対して、RIIさんも大徳さんも、けっこう怒ったことがあると思うんだけど、どうなのかな。
まだみんな若いし、失礼な読者もいたでしょうね。
そういうことはあったよね。面白いよね。だから読者との関係っていうのは難しいよねって、今更ながら言っちゃうんだけれども。だけど小林くんがやってた読者コーナー[62]とか、僕のところのVOICEにしろ、面白い人がアウトの読者にいて、それはある意味で楽しかった。読者に対して「すごいな」と思ったのは数知れずです。こんなこと思ってるんだ、なるほどって。
ただし誌面が限られてて、だからこういう意見を表す場に関しては、ネットになっていくんだなとは思いましたね。だけどどっちにしろ、それも収拾つかなくなるなって…今そうなってるけど、そっちへ落ち込んでいくんだろうなっていうのも、思ったんだ。それが2ちゃんねる[63]を最初に見た時の感想でした。なんていうか、地獄の蓋というかパンドラの箱というか、やばいものを開けちゃったよねっていうのがひろゆき氏に対する僕の意見です。2ちゃんも怒号が飛び交う感じになっていったから、最後はこれになっちゃうよねっていう感想はありましたね。
やっぱり編集者の立場の方としては、編集者がほぼ存在しない場所というものに対する、危機感というか、そういうものを感じられたのかなと。
うん、「それを言ってもいいんだよね」っていう風にしちゃったんでしょうね。それの延長で、創作活動も同じように編集者がないところから始まるんですよ。だから「なろう系[64]は、ああなるよね」っていうことでね。OUTはその狭間というか、ちょうどバブルの崩壊するところにいたんだよね。変な雑誌…っていう言い方をしちゃうんだけど、変な、というのは良い意味も悪い意味も含めてで、いろいろ感慨はあります。
「Magazine MEGU」青磁ビブロスから発刊されたアニメ誌。'95年5月に創刊準備号、8月発売の9月号より正式に創刊。創刊編集長は南波健一郎。当初は後期の月刊OUTの路線を継承し、多くのOUTのコーナーと執筆者がそのまま移籍していた。
OUTが休刊して、MEGUを今度は創刊されますが、その話をお聞きしてもよろしいですか。
これは、単純に青磁ビブロスの社長が、『超人ロック』のビデオを作ろうと企画されたんですよ。『超人ロック』はOUTで連載を続けてビデオはビブロスでってなってたのが、OUTが休刊しちゃったので、ロックを続ける場所を作ろう、っていうのが最初の発想だったらしいです。で、声をかけられて、「うちは全く問題はなくて、あとは聖プロさんとのお話でオッケーでしたら、どちらでもよろしいんじゃないでしょうか」という話をしたら、聖プロさんとしては、どこか大手の出版社へ移動とか戻るということはなくて単独の話にしてたみたいなので。
その「超人ロックを載せるメディアがいるよね」っていう話から、「じゃあ雑誌作ろうよ」って、ビブロスさんが言い出したってことなんですか。
そうです。それに関してはビブロスさんが言い出した。こちらが持ち込んだとかじゃないです。そう言ってくれたので、ありがたいとしか言いようがないですよね。
で、(そういう媒体を)作ろうって始めた時に、僕はOUTのまんま行けるんだったらそれはいいなと思って乗ったんです。それで「どうせやるなら」という話になってくるんですよ。青磁ビブロスさんは、BLの雑誌でちゃんとやってたから、別の方向性も欲しかったんでしょうね。
で、それに関しては、もうこれは全くもって反省点なんだけど、僕の編集長としての能力不足でした。ビブロスさんの側は優秀な方で、それだけに一番売れてる雑誌に対抗する形にしたいという想いがあった。それを汲みたかったんだけど、能力がなかった。でもあの当時のアニメ業界で、『ニュータイプ』的な本は1冊で十分で、「だったら違うのやりましょうよ」って言えたらよかった。だから「OUTのまんまだったら」とちゃんと最初に言っちゃえばいいんだけど、それを言えなかったな。OUTを潰したばっかりだったし、ある意味で落ち込んでたところを拾い上げてもらったっていう恩もあって、あの時の気持ちはいろいろ複雑ですね。
それで、自分の反省話になるので面白くないんだけれども、入ってきた編集部のスタッフとかライターさんとかから、いろんな意見が出てくるんですよ。それを僕がいろいろ取り入れちゃったんで、結局妥協の産物になっちゃうんですよね。だから、みんなが満足しないという。それで大失敗だったなと思ったんで、「この部数じゃ困る」って言われた時に、1年で僕は辞めたんです。その後いろいろあって休刊まで行っちゃうのは、僕が最初に失敗したからだろうな。だからあれに関しては私の責任ですとしか言いようがない、クリエイターとして。
編集長ってもっとクリエイターでいいんだ、調整役じゃダメなんだなっていうのは、あそこで思いしらされましたね。あの時、36歳か。管理職的・調整的な役割をやりつつなんていうのは、ちょっと甘かったね。青磁ビブロスさんには悪かったなとしか言えないですね。
アウトが休刊して、もうわずか2ヶ月先に、この準備号が出たんですよね。(発行は'95年5月26日)
そう、全然前から用意してたとかじゃなくて、3月の下旬ですよ。ほんとにOUTが校了して、会社の片付けが終わったところからだから、やっぱり1ヶ月半ぐらいで作ってたんだよね。だから準備号に関しては、ノリとしてはOUTのまんまでいけるのかなというノリだよね。
最初の方は、OUTのコーナーとかライターさんもかなりそのままですね。
そうそう。だからライターという形だけれどもそれを小林くんに担当してもらって、結構そこそこの原稿料が出てたはずなんで、彼の方がちょっと高かった(笑)。
でもね、やってる仕事は面白いんです。本作り・雑誌って面白いんですよ。雑誌というのは、いろんなことやったり、いろんな人に会うので。だから、その面白さにかこつけてやっちゃったのがいけなかったし、もうちょっと冷静に見ることが必要だったなっていうのは、今は思ってますけどね。
その後、講談社とか集英社・小学館も含めて大手のライターをやるようになって思ったのは、編集部とは別に、営業とか管理とかの部署がちゃんと目を光らせててて、編集部が暴走してないかを見ている。そういうのがないと、なかなか大手と対抗するような本は作れない。だから結局、同人誌だったらいいんだけどね、っていう話になっちゃうんだよ。金取る同人誌はないよなー、とかね。だから『ファンロード』はギリギリでしたよね。うまくやってた。アニメファン・アニメマニア、特にメカ系は『アニメック』の方になってたし、アニメ誌の勢力図がごちゃごちゃのままOUTが終わってMEGUまで行っちゃったというところはあったよね。
読者の立場で言うと、僕の友達でずっとOUTを買ってた人はいっぱいいるんですけど、最後までOUTを買ってた人はみんなMEGUも買ってるんですよね。で、いまだに持ってますよ。
小林くんのやったコーナーがそのまま生きて、あれももっとなんとかならなかったかなと思うんだけど。その時にもう思い切って、ビッグサイトで年に1回出す本にしてそれでっていう手もあったかもしれないね(笑)。でももうネットの時代だったしなっていうのもあるしね。
時代の変化は大きかったですよね。それでもMEGUを出してもらえたのは、読者としては本当にありがたくて。
これはね、そう言ってもらえると、本当に救いです。
あの時に、OUT的なものをどうしましょうって、大徳さんと話したはずなんだけどな。でも大徳さんにも答えはなかったと思います。オワコンではないのに、ビジネスシーンに乗らないところをどうするかってのは課題だよねっていうところですね。
大徳さんはやっぱり師匠みたいな感じなんですか。
師匠というよりは、実は(一緒に編集部にいたのは)5年間だけで、その後は外の人としての付き合いだったんだけど。ただ大徳さんがやってたこと・話したことは非常に参考になりましたね。アウトの編集の皆さんが僕にとっては師匠なので…本当にいろんなキャラクターがいて、その出し方とか出さなさ方とかが面白かったから、それで勉強になった。
これはご本人がどう思ってるかわからないけど、大徳さんって本来は非常にマニアックな指向がある方なので、パーフェクトメモリー系の企画をもっとやられてもよかったんじゃないかなと思ってるんですけどね。だけど『エヴァンゲリオン』[65]とかはやれなかったかもな。MEGUはちょうどエヴァの時だよね。
『エヴァ』の時までOUTが残ってたとしたら、何か変わってましたですかね。
いやいや、どうだろうな。難しい哲学の話で、実はあれはウィトゲンシュタイン[66]の…とか、そんな話をのっけたかもしれないけど、それって他でもやったよねって気もしないではない。RIIさんがいてあそこらの話をしてたら面白かっただろうなとは思う題材ですよね。
ただ庵野さん[67]は、富野さん以上に難敵だからな(笑)。庵野さんは、実は今でも掴めないところがあって。非常に物事ははっきりくっきりしてるけれども、心の中では非常にナイーヴな方っていうのが…でも、クリエイターってそうですよね。
あの作品は読者が色々な見方ができたから、その意見を誌面でのっけてぶつけ合ったら面白かったなと思いますね。特にテレビのラスト2話に関しては面白かっただろうね。あれに関して本当にどう思ったんだろうっていうのは、いろんな意見を載せたかった。
MEGUでもその記事はありましたけど、読者側のはそんなに載ってなかったと思います。OUTだったら違いましたかね。
そこでもっと読者寄りの内容を、間口を広げた形でできたかな、とかね。ただ、それが良かったか悪かったかはわからない。結果は結果なので。
(→ その3につづく)[54] ガイナックス : アニメ制作会社。『オネアミスの翼』公開時の'87年7月号にガイナックスメンバーのインタビュー記事がある。
[55] 赤井孝美 : イラストレーター、ゲームクリエイター、プロデューサー。ガイナックスの立ち上げに参加する。代表作に『王立宇宙軍 オネアミスの翼』『プリンセスメーカー』など。
[56] ゼネプロ : ゼネラル・プロダクツ。特撮・SF系のグッズ・ガレージキットメーカーとして模型文化の一翼を担い、ガイナックスの母体ともなった。名前の由来はラリー・ニーヴンのSF小説群「ノウンスペース」シリーズに登場する宇宙船製造会社。おなじ元ネタから、ファンクラブは「ノウンスペースクラブ」、会報は「パペッティア通信」と名付けられていた。
[57] 岡田斗司夫 : 「オタキング」を名乗り、一時はおたく文化の代表者と認識されていた。このインタビューの文脈では、『オネアミスの翼』を実現させたプロデューサーとしての功績に触れておきたい。
[58] 芦田さんのコーナー : 『スタジオ・ライブのライブDEずっぽ〜ん!』('91年10月号から'95年5月号)。もとはアニパロ一発ギャグが主体だったが、「勝ち抜き乳合戦」などの下ネタ色と悪ノリが徐々に強まり、'80年代の『芦田豊雄の人生冗談』に匹敵する過激なお笑いコーナーになっていった。
[59] HEGEのコーナー : 『納得いかねー世直し団』('91年11月号から'95年5月号)。小学生男子の言動をそのまま大人にしたような記事とシュールで尖った笑いの投稿コーナーで、スタジオ・ライブの投稿コーナーとともに、後期OUTの笑いの部分を盛り上げた。WHはここの常連でした(ペンネーム・私の本)
[60] 芦田豊雄 : アニメーター、アニメ監督。代表作に『魔法のプリンセス ミンキーモモ』『銀河漂流バイファム』『魔神英雄伝ワタル』など。OUTでは投稿コーナー『芦田豊雄の人生冗談』『ライブdeずっぽーん』において、強烈な下ネタとギャグセンスで熱狂的なファンを獲得した。
[61] 編集部見学 : 初期の頃は読者が編集部に遊びに来ることがあり、後には人数が増えてきたので見学日を誌面で告知するスタイルになった。地方の読者は事前に往復ハガキで知らせることで見学できることもあった。東京では毎度編集部見学に出没し、他の読者を仕切るという猛者もいたとか。SIIは一度アポなしで編集部を訪れ、たまたまいらっしゃったLさんに貴重なまいどくんの缶バッジをもらったことがある。
[62] お茶の水研究所 : 『投稿時代』の後継として'91年2月号より始まる、編集部が構成する投稿ページ。様々なお題のコーナーがあり、コーナー案に困ったM小林のために『Mはこうしろ!』というコーナーまであった。
[63] 2ちゃんねる : 1999年に西村博之によって開設されたインターネット上の巨大電子掲示板サイト。2017年に「5ちゃんねる」に改名。「『ハッキング』から『今晩のおかず』まで」のフレーズの通り幅広い話題が投稿されるが、匿名掲示板の成り行きとして攻撃的・冷笑的な言説が蔓延することとなった。アメリカでは同種の「4chan」を生み出し、陰謀論者QAnonの母体となるなど、社会に深刻な害を及ぼした。
[64] なろう系 : 小説投稿サイト「小説家になろう」に掲載された作品のうち、異世界ファンタジー系の作品、および作家の呼称。
[65] 新世紀エヴァンゲリオン : 庵野秀明原作・監督によるアニメーション作品。テレビシリーズは'95年10月から'96年3月まで。
[66] ウィトゲンシュタイン : 当時、『エヴァンゲリオン』に対して哲学・現代思想サイドからの考察・分析がさかんに行われていたことをふまえての発言。ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインは現代思想に多大な影響を与えた哲学者。
[67] 庵野秀明 : 『ふしぎの海のナディア』『新世紀エヴァンゲリオン』で知られるアニメ監督。