元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
略歴群馬県出身。1980年前後にみのり書房入社。1981年より1991年まで月刊OUT編集部員。映画紹介コーナーや投稿ページなどを担当。誌上での名前は「G」。現在は故郷にて有機農業を営む。
(聞き手:OUT勝手連 SII/WH/KN、 ドライバー:木野聖子、 イラスト:越前屋のび太)
インタビュー:2026年4月25日
公開日:2026年10月10日
みなさんにOUTとの関わりを最初にお聞きしてるんですが、僕が昔からすごく聞きたかったのが、GさんがOUT編集部に入る前の、中高生とか大学時代の話なんです。よければお聞かせいただけますか。
私には二人の兄がいて、学年でいうと5年離れたすぐ上の兄の影響をかなり受けました。音楽や漫画、文学面ともう様々。その兄はもう高校生の時から学生運動やってて、中学生だった私も色んな面で感化された。
音楽だと、その当時、兄がURC[1]という会員制のレコード会社の会員だったことから、反体制的なミュージシャン、その頃はミュージシャンなんて言わなかったけど、それを知ることになるわけ。岡林信康[2]・早川義夫[3]・高田渡[4]・友部正人[5]・加川良[6]・三上寛[7]・中川五郎[8]…はっぴいえんど[9]なんかもいたよ。それとは別に、自分で一番最初に買ったレコードが『岡林信康の世界』というアルバム。もちろん今も持ってるよ。みんなフォーク系だよね。この人たちの歌は、もう半世紀を過ぎた今でも、よく聴いています。
高校生になってからは、劇画誌の『ガロ』[10]も、兄の影響で読み始めたの。その頃、連載されてた白土三平[11]の『カムイ伝』で、被差別部落問題といった社会的なテーマをより深く知れたし。他にもつげ義春[12]とか赤瀬川原平[13]とか、今でこそ一定の認知度はあるけど、その頃はまだ、ほとんど知られていなかったでしょ。それまで少女マンガ一辺倒だったから、さすがに衝撃度が強かったね。そういう兄を持ったお陰で、中高生活はフツーではありませんでした(笑)。かなり、ずれてた。
でもね、そもそも私が「自分は他の人とは違うんだ」っていう感覚を持ったのは、小学校に入学した時なの(笑)。1960年代の小学生のランドセルといえば、男子は黒、女子は赤に決まってた。もう99%その色しかなかったから。ところが、入学前に父が私に買ってきたランドセルは赤ではなくピンク。ちょっとびっくりしたんだけど、そのまま入学式へ。そしたら、私以外、女子のランドセルは全て赤。たったひとり、私だけピンク。もう、打ちのめされて、悲しくて悲しくて、泣きたかった。
今考えるとね、この事件が私のその後の人生に少なからず影響したと思ってるの。私はみんなと違うんだ、フツーじゃないんだっていうショック。
それから40年くらい経って、父が亡くなる数日前に、ふと、そのことを思い出して訊いてみたの。どうして、私のランドセルをピンクにしたのか、って。そしたら一言、「一番高かったからだ」って。もう、あまりに単純すぎて、呆然としましたね。私の人生はここから狂い始めたっていうのに…。でも、その後の小学校生活は何事もなく無事に過ぎましたけど。
第一歩で周りとのズレを意識して、音楽とかマンガでそれが増幅したんですかね。それ以外だと?
あとは詩かな。恥ずかしながら、谷川俊太郎[14]から始まって、思潮社から出ていた現代詩文庫を読み漁った。
そういう中高生活を送ったのち、東京に出て来られたんですね。
兄が二人とも東京の大学に入ったので、私も東京に行くのがあたり前だと思ってました。でも受験勉強って言いながら、深夜放送ばっかり聴いてて、ほとんど勉強しなかったから、全部落ちちゃったの。深夜放送はね、TBSの『パックインミュージック』[15]、それオンリー。あ、『ナッチャコ』[16]も聴いてたよ。一番好きだったのは、ナッチャコの後のパック第2部、林美雄[17]さんの金曜パック。荒井由実…今の松任谷由実ね…はデビュー前にこのパックに出てたんだよ。
ここで随分、いろんな情報を得た。ATG映画[18]とかアングラ演劇[19]、日活ロマンポルノ[20]…もう色々。もしかしたら、このパックがやってたことって、サブカルの元祖的なものかもしれないって思う。あとは山本コータロー[21]、小室等[22]、ニール・ヤングの馬場こずえ[23]とかさ。とにかく、勉強そっちのけで聴いてた。
でね、それでも早く東京に行きたくて、東京の予備校に入ることになったの。憧れの東京生活が始まったわけ。でも、段々予備校にも行かなくなって、映画ばっかり観てた。予備校が池袋だったから、文芸坐と文芸地下ね。その頃は3本立てで、いつでも中に入れて、今じゃあり得ないけど、映画を途中から観ることもあった。それに一応、館内は禁煙なのに、無茶苦茶みんな煙草吸ってて、煙がモウモウとして、スクリーンが曇って見えるの。ほんとに劣悪な環境だったね。それに座席のシートが硬くて、3本観ると、もうお尻が痛くて痛くて…。
で、結局、完全に予備校に行かなくなって、そのうち受験が近づいて来た。ヤバイなあ、ヤバイなあって、全く呆れるよね。でもって確実に受かるところじゃないと、もう東京に居られなくなっちゃう。で、なんとか入れたのが和光大学。でも、この大学は卒業生に私の好きな『ジャックス』の早川義夫がいたし、大学自体ちょっと異端というか、前衛的な大学だったの。
大学はどんな感じだったんですか。
私が入ったのは、文学部の芸術学科で、そのゼミに針生一郎[24]という先生がいて、その人は昔から相当な左翼で、美術評論家という肩書きはあるんだけど、権威的なものを毛嫌いしてて、芸術院とかね、そういう美術界のあらゆる権威と戦ってるような人だったの。そのゼミに入って、色々と感化されましたね。
あと、この大学は所属している学部に関係なく、どんなゼミでも講義でも受けられたから、結構楽しかった。つげ義春についての講義も受けられたし。
大学が小田急線だったから、その頃は下北沢に住んでて、楽しくて楽しくてしょうがなかった。私が住んでたアパートはね、すぐ隣に映画館があったの。でも、その映画館は洋ポルノ専門の三番館だったから、入ったことはなかった。でもね、土曜の夜になるとオールナイト上映とかやってて、私の部屋にまで、その上映されてる映画の音が聞こえるの。ポルノだから、ほとんどあの声ね。夏なんか、窓開けてると、もう大変だった。でも、1回だけでも、あのオデヲン座に入っとけばよかったなあ、って後悔してます。その映画館は1年後くらいに閉館して、壊されて、ボクシングジムになっちゃった。
で、そのうちにまた、さぼり癖が出てきて、3年くらいから、あんまり大学に行かなくなるの。その前に、単位ボイコット運動なんていうバカみたいなことをやったりしてたから、卒業までに全然単位が足らなくて、4年までいたけど中退しました。
それから、すぐに働かなきゃいけなくて。でも当然就職活動なんてしたことないし、どうしようかなって思ってた時、朝日新聞の求人欄にみのり書房が載ってたの。丁度、その頃、'70年代末に、エロ劇画ブームというのがあって、その劇画誌に、ガロで描いてたマンガ家が何人か描いてたんだよね。『劇画アリス』[25]とか『漫画エロジェニカ』[26]とか…。だから、その手の劇画雑誌に興味があったの。
で、みのり書房…あ、『官能劇画』[27]と『漫画スカット』[28]だって、すぐにわかったの。『漫画スカット』には私の大好きな鈴木翁二[29]が描いてたし、場所もお茶の水だから、ディスクユニオン[30]も古本屋も岩波ホール[31]も、レンタルレコードのジャニス[32]だってあるし、と思って、すぐに応募したの。募集してたのは営業部だったけど、なんとかなるかもって楽観的に考えてさ。でも、劇画誌の方は。女の方は採りませんって。でも営業でちょっとやってみたらって言われてね。他に働くあてもないし、ま、いーかって思って。
みのり書房に入って、営業ではどんなお仕事をされてたんですか。
営業で私がやってたのは、雑誌の発送とか在庫の管理とか…お金のことは私は一切わからないから、面白くもないどうでもいい仕事だったけど、でもわりと自由だったんだよね。服装も、制服とかなくて。だからとりあえず居ようと思って。当時みのり書房は、ビルの2階と3階にあって、2階が営業部で、3階が編集部だった。その編集部も劇画誌とOUTに分かれていたんだけど、OUTなんて全然知らなかった。
そうして1年が過ぎた頃、OUT編集部のLさん[33]が、「編集に興味はない?」みたいな話をしてきて。それで「もともと劇画雑誌の編集をやりたくて受けたんです」って言ったら、Lさんに、「ちょっと編集後記を書いてくれ」みたいなことを言われたの。「私、編集してないのに編集後記って言われても困るんですけど」って言ったら、「いいのいいの、なんでもいいから思ったことをちょっと書いてみて」って。今考えると、私の文章力を試したかったのかな。
編集後記は文字数はだいたい決まってたから、それに合わせて思ってたことを何か書いた。それからしばらくして、大徳さん[34]から、「アニメ雑誌だけど、ちょっと手伝ってみないか」みたいなことを言われたんだよね。でも私は、全然アニメなんて興味なかったし、好きじゃないし、私の知ってるアニメと言ったら、『鉄腕アトム』[35]に、『ゲゲゲの鬼太郎』[36]『サイボーグ009』[37]くらい。あ、『どろろ』[38]も。『どろろ』は一番好きだったな。主題歌も大好きだった。だから、そういうこともちゃんと伝えたのね。でも「全然構わないよ」って言うわけ。
今思えば、漫画のネームとか、アニメに関係のない雑用もたくさんあるし、そういうことだったんだろうけど、でも、とにかく営業よりは面白そうだから、「はい、じゃあやらせてください」みたいな感じだったのかな。それが始まりですね。
OUTは知らなかったんだけど、これが不思議なことに、その頃、一番仲のよかった友人が、エロ劇画雑誌の編集部にいて、その編集部から本を1冊もらってきたの。それがなんと、OUTの創刊号だったの。私が今やってるOUTって、これが創刊号みたいだよ、と言われて、本当に驚いた。だって、私が今、手伝ってるOUTとまるで違う、判型もロゴも全く違う。で、それから大分後のことなんだけど、OUTの10周年記念特集の時に創刊号の表紙を載せることになって、でもみのり書房には創刊号がなかったんだよ。だからその私の友人がもらってきたものを使ったってわけ。なんだか不思議な縁だよね。
『ブックリハウス』('82年8月号から'85年5月号):本の紹介コーナー。イラストには笑顔のGと「ごほんですよ!」というセリフが描かれている。取り上げられる本はバラエティに富んではいるものの、青少年向けエンタテインメント小説が多い傾向にあった。このコーナー以前には『ぶっく・ブック』という本紹介のコーナーがあり、'86年以降も『ゴ本のページだよ』『スクランブルド・インプレッション』『BOOKING PAGES』など様々な名前で断続的に続く。
ここにあるのが'82年の1月号ですが、編集後記の横に編集部の人たちのイラストが載ってて、Gさんの絵に「引っ越してきました、よろしく」って書いてあって、だから営業からやってきたのがこのころなんですね。編集部ではどういった仕事を担当されてたんでしょうか。
いちばん最初は漫画のネーム貼り、それから原稿の清書、座談会やインタビューのテープ起こし。で、どのくらい経ってからっていうのは覚えてないんだけど、最初に担当したのが米澤嘉博さん[39]。『ブックリハウス』ね。このネーミングはけっこうセンス良かったんじゃないかと思うんだけど。とにかく人気がないコーナーを持たせられたわけ。
人気がなかったんですか。まあ、雑誌の後ろの方のページにありましたしね。
読者アンケートで、つまらなかったコーナーとか聞くじゃない? だいたい名前があがるもんね。
本の方は、米澤さんがご自分でセレクトして原稿を書かれてたんだと思いますが、そのころ持たれていた漫画評論の連載(『簡単漫画時評』『病気の人のための漫画考現学』)も終わって、本のコーナーもあるところで終わってるんですね。それで本のコーナーにはその後ずっとGさんの顔のイラストが載ってるんですけど、「記・曇天」って書いてあって、誰なのかよくわからなかったんです。本のセレクションを見ても、これはGさんじゃないだろうって。たとえばこの号('82年7月号)では、『ストーカー』[40]ってSFが紹介されてますが。
私は『ストーカー』は好きだったよ。タルコフスキー[41]の映画が。
本も読んでたんですか。
映画を観て、本を買ったんだけど、本は途中で挫折しました(笑)。
別のページで紹介されてる本は新書だからRIIさんかな、ともちょっと思ったんですけど、いろんな人に「何でもいいから書いてください」ってやってたんですかね。
えー、誰だろう? でも私のイラストが載ってるってことはさ、私が担当してたんだよね。誰かに書いてもらうにしても、毎月これだけ書ける人って…米澤さんしか思いつかない。全く恥ずかしいくらい記憶がないの。申し訳ない。
でも、映画のコーナーの方は…。
とてもよく覚えてる。
ということは、本のコーナーの方には特に熱意がなかったけど(笑)、映画の方にはすごく熱意があったんですね。
はい。だってさ、自分で映画観て原稿書くのと、誰かの原稿を担当するのとでは、熱の入れようが違うじゃない。
米澤さんと言えば、面白いエピソードがあるの。『ブックリハウス』の原稿を受け取る時、喫茶店で待ち合わせるんだけど、私は遅くても大体約束の時間の10分前には行って待ってる。でも米澤さんはほとんど決まって遅刻するの。ま、多少の遅刻は仕方ないんだけど、1回、ものすごく遅刻した時があって、今みたいにケータイなんかない時代だからね、私もさすがに怒っちゃったの。申し訳ありませんって謝ってるのにさ。
でね、その次の時、今度は初めて私が10分くらい遅刻したの。最悪! でも米澤さん、笑ってるの。だから、私、「どうして怒らないんですか」って言ったら、米澤さんが「今、怒ると、またこれから先、僕が怒られるでしょ」ってね。ハハハ。参りましたね。もちろん、その後は怒れなくなっちゃいました。
米澤さんかあ…懐かしいなあ。その後の作家のインタビューはほぼ米澤さんと私の二人でやってた。夢枕獏[42]、菊地秀行[43]、光瀬龍[44]と萩尾望都[45]…亡くなるの、早過ぎるよね。いっつも煙草吸ってて、ほんとにヘビースモーカーだった。私も吸ってたけど、比じゃない…二人ともハイライト、労働者煙草(笑)。あんなにマンガに精通してる人って、もういないよね。
『テアトル湯島』('79年8月号から'84年8月号):映画の紹介コーナー。Gが担当するのは'82年7月号より。当初はハリウッド映画などの洋画エンタテインメント作品が多くとりあげられている。ページ数も4ページ前後と多かった。
『テアトル湯島』はその頃、Cさん[46]が担当してて、映画好きの私にとっては、一番羨ましいコーナーだった。だってさ、映画の公開前にその映画がタダで観られて、しかも仕事時間に観られるんだよ。天国じゃん。で、Cさん宛てに映画の配給会社から映画の試写状が届くんだけど、Cさんと私の映画の好みって全然違うから、Cさんがあんまり観たくない映画の試写状を私にくれるわけ。そのもらったのって、ほとんど私好みで、もうメチャクチャうれしかった。それで、その映画を観に行ってその紹介文を書くっていうのが、私が本格的に原稿を書いた始まりなんじゃないかな。
試写室に行って嬉しかったのは、まだ淀川長治さん[47]が元気な頃で、隣に座るのよね。昔の試写室は、高低差があんまりなくて、私は背が低いから、前の人の背が高いとほとんど字幕なんか見えなかったりするので、だいたい一番前に座るの。前に座るメンバーもだいたい決まってて、私、淀川さん、それから田中小実昌さん[48]、で、おすぎさん[49]。その人たちと隣り合わせになりたくて座ってるんじゃないんだけど、淀川さんと小実昌さんは涙ものでした。淀川さんはテレビに映ってた、あのまんまの人だった。あのまんまの口調で話してるの。
あと、試写室で会って感激したのは、筑紫哲也さん[50]。その映画はテオ・アンゲロプロス[51]の『シテール島への船出』[52]ってこともはっきり覚えてる。筑紫さんは私の尊敬する人物の一人です。「少数派でいることを恐れるな」って言ってたことがあって、それ以来、他者、とりわけ自分とは考え方の異なる多人数の人々の群れに飲み込まれることの安易さみたいなものを警戒してますね。
孤立するって、ものすごくエネルギーがいるよね。そういう群れに迎合してしまう方が、楽で簡単なのもわかってる。でも、その群れの考え方が、間違ってるんじゃないか、って思ったら、どんなに孤立しても、少数であっても、それは違う、って言い続けないとダメなんだと思う。国が戦争に突入していく時って、個がすべて否定されるでしょ。だから、少数派でいることを恐れるなって、大事だと思う。戦争は絶対、個の否定、全体主義から始まるから、国家国家って連呼する政治家には気をつけなきゃ。
('82年7月号を手にとって)これが『テアトル湯島』をGさんが担当し始めたころですね。でもこのころ選んでる作品って、例えばこの『カリフォルニア・ドールズ』って女子プロレスの映画[53]の評は、Gさんではなさそうな…。
行ってません。
こういうエンターテインメント系はCさんで、こっちの『ひめゆりの塔』[54]の方は、Gさんなんですね。
そうそう。
このころ、映画コーナーをこういうふうにしていこう、というような編集の方針ってあったんですか。
なかったと思います。ほんとは読者が好きそうなもの、SFもの、エンタメ系とか、つまりCさん系の映画だけ紹介した方がいいのかもしれないけど、それじゃあ、私が担当する意味がないでしょ。でもさ、人気がないからって、映画や本なんかの情報コーナーを切り捨てちゃうのはよくない、という考え方を大徳さんは持ってたんだと思う。でも、そんなふうに守ってもらうと、逆に…。
辛いですか。楽しくやれるんじゃないんですか。
いやいやいや、やっぱり人気がない上に人気がない作品を紹介するっていうのは…わかるでしょ? でもね、そんな作品を紹介して、たった1人でも観てくれればいいって、思うしかない。
『Gの絶対安全シネマ』('88年5月号から'91年10月号):『テアトル湯島』終了後、引き続いてGがメインとなるおすすめ映画紹介コーナー『絶対安全シネマ』に移行する。'85年6月号より映画情報のみの『シネマ・ファクトリー』、1ページの映画紹介『食べごろシネマ』などとなり、'88年よりあらためてGの名前での映画紹介コーナー『絶対安全シネマ』が2ページで始まる。'89年11月号では金子修介監督へのインタビューも。
82年から'91年ぐらいまで、およそ10年ぐらい、映画コーナーをGさんは担当されています。それで最初のころはCさんとのバランスで作品評が載ってたと思うんですが、後半の『Gの絶対安全シネマ』あたりになると、もう好みの映画だけになってますね。
すみません(笑)。
それは何かご自分の中であったんですか。
やっぱりね、自分が面白くないって思う映画を紹介するのは辛いんだよ、ウソっぽくて。ただ、わがままなだけだけど。
それで編集部の中で言われることはなかったんですか。
ありました。Eさん[55]からよく言われました。アンケートで、つまんないコーナーの常連だから。それである時やり方を変えて、架空の人物を作って対談する、みたいな形でやってみた[56]。だけどそれでも、「つまんないものはつまんないよ」とか言われてさ(笑)。だから、映画コーナーがいつ潰されるかって…。
で、それから結局、映画コーナーは潰されるんだけど、つまらなくても情報だけは届けたい、ということを直談判して、それでページ数が1ページくらいになった。もう編集長がYさん[57]に変わってた頃じゃないかな。
ページ数が減って、『投稿時代』を担当される頃('88年)には同時に『Gの絶対安全シネマ』って映画コーナーもやってて、1ページだったのが2ページになったりして、またページ数がちょっと増えます。それを見てると、例えば戸島さん[58]とかやすだののぶさん[59]とか、熱心な人が映画の感想を投稿してきて、それを載せてますね。
そうそう、人気がないコーナーだったからこそ、なるべく読者の投稿を載せたかったのよ。だけど、ほんとに少ないの。人数が限られてるから…だいたい10人ぐらいしかいなかったけど、その人たちのことはすごく覚えてるよ。嬉しかったしね。奈良の清水くん、広島の嫌うっどくんとかね。
やすださんはすごくノルシュテイン[60]が好きでね。そういえば戸島くんは、ライムスター宇多丸[61]の『アフター6ジャンクション』っていうTBSラジオの番組に投稿してるんだよ。農作業やってる時は、私、いつもラジオ聴いてんのね。で、ある日、戸島竹三って名前が読まれて、びっくりしたの。神奈川って言ったから絶対、あの戸島くんだって。
それにその番組の構成作家がHEGE[62]の古川くんだってことにも驚いた。最初、そんなこと全然知らなくて、ラジオの向こうで宇多丸と話してる声に、どこか聞き覚えがあったの。で、宇多丸が古川さんって言って、別の日に古川耕[63]って言ったので、やっぱりそうだったのかってね。古川くんのペンネームは「あっぷるまぢっく」って言ったかな。さらに、この番組の常連のしまおまほさんのお母さんは、OUTの元編集長で『ALLAN』[64]を創刊した南原さん[65]のお姉さん。ほんと、いろんなところで妙な繋がりがあって面白いと思ったね。
えっとね、宇多丸ついでに言うと、宇多丸のお父さんって、精神科医で群馬の三枚橋病院という精神科の病院を創設した人なんだけど、その病院で最初に話した私の兄が働いてたの。兄はその医師の信奉者だった。ほんと、面白い縁だなって。
で、映画の話に戻ると、宇多丸のその番組に『ムービーウォッチメン』っていう映画批評のコーナーがあるの。私がこの人、偉いなって思ったのは、自分の好みの作品だけじゃなくて、批評する候補作を何本かセレクトして、その中からサイコロ振って当たった作品を批評するっていうスタイルをとってるの。で、当たった映画は自腹で必ず2回観て、ちゃんと批評する。すごいなって。
それと比べたら、映画担当だった頃の私は、公開前にタダで観て、つまらなかったらケチョンケチョンに貶して、もう傲慢そのもの。これね、貶すのが悪いんじゃなくて、ちゃんと自分で金払って観なきゃ!ってことなの。それでつまんなかったらつまんないって言う権利はあると思うんだ。だから、その点については、今更ながら反省してます。ひどいヤツだったと思う。
もちろん今は、ちゃんとお金を払って、ちゃんと映画館で観てます。群馬にもミニシアターが2館あるからそこそこ観たい作品は観られる環境なの。昔は1日に3〜4本観ることもあったけど、もう今は1日2本が限界だね。
そういえばその後期の『絶対安全シネマ』で、『いまを生きる』っていう作品[66]をすごく推されていた回があって('90年4月号)。
それ覚えてる。うん。
それで僕もこんなに推してるんだったらと思って観たんです。よかったですよ。未だに覚えてますもんね。で、たぶん同じように思った読者がいっぱいいて、けっこう後の方まで『いまを生きる』って言葉があちこち投稿に出てくるんです。
『いまを生きる』に感動した、というネタのハガキがありましたね。
この作品の感想文を特集した月もあったりして。
なんとなく覚えてるな。この作品はよかったよね。「これだったら観てくれるんじゃないかな」っていうのはあった。「観てほしい、観る価値はあるな」って。
『いまを生きる』のように、型破りな教師が赴任してきて、生徒たちに影響を与える的な映画はいくつかあるんだよ。最近観たのではタイトルもズバリ『型破りな教室』[67]。教師ではなくて、校長が対話することの重要性を子供たちに伝える『ぼくたちの哲学教室』[68]とかね。共通しているのは、子供たちに自分の頭で考えて、暴力ではなく、言葉、つまり対話によって、問題を解決していく方法をさらっと伝えてることね。
私たちも子供の頃に、どんな先生に出会えるかで、その後の人生が変わったりすることもあると思うの。その出会いはもう、どうしようもない運命みたいなものかもしれないね。だからこそ、教育ってものすごく大事だと思う。
『いまを生きる』で、ちょっと内向的な生徒役だったイーサン・ホークという俳優、今もいろんな映画に出てるけど、すっかりおぢさんになっちゃって、時の流れを感じるねえ。自分も歳とったんだって実感しちゃう。先生のロビン・ウィリアムズは、若くして死んじゃったし…。
そう、ロビン・ウィリアムズもいい映画にいっぱい出てましたよね。…まあそんなふうに僕らの記憶に残ってるぐらいなので、あのコーナーは人気がなかったと思われていたかもしれませんが、やっぱりみんなチラチラ読んでたんですよ。
そっか。うん、そういう話を聞くと、嬉しいですね。
[1] URC : '69年に設立された日本のインディーズ・レコード・レーベル「アングラ・レコード・クラブ」。岡林信康、高田渡、加川良、三上寛、はっぴいえんどらの作品を発表し、日本のフォーク/ロックの発展に大きな影響を与えた。
[2] 岡林信康 : フォークシンガー。'68年に『山谷ブルース』でレコードデビューし、「フォークの神様」と呼ばれた。代表曲に『友よ』『手紙』『私たちの望むものは』など。
[3] 早川義夫 : シンガーソングライター、元ジャックスのボーカル。’60年代の日本アンダーグラウンド音楽を代表する人物の一人で、解散後は書店経営者としても活動した。
[4] 高田渡 : フォークシンガー。反戦や社会風刺を織り込んだ歌や、山之口貘らの詩に曲をつける独自のスタイルで日本のフォークを代表する存在となった。代表曲に『自衛隊に入ろう』『自転車にのって』『コーヒーブルース』など。2005年逝去。
[5] 友部正人 : シンガーソングライター・詩人。'70年代から活動し、日本フォーク界を代表する存在の一人。
[6] 加川良 : フォークシンガー。URCからアルバム『教訓』を発表し、『教訓I』などで知られる。'70年代の日本のフォーク・シーンを代表する人物の一人。2017年逝去。
[7] 三上寛 : フォークシンガー、詩人、俳優。'71年にレコードデビューし、情念的な歌唱と「怨歌」と呼ばれる独自の表現で知られる。寺山修司の影響も受けた。
[8] 中川五郎 : フォークシンガー、音楽評論家、翻訳家。'60年代後半から活動し、反戦・社会批評的な歌を発表した。
[9] はっぴいえんど : 細野晴臣・大瀧詠一・松本隆・鈴木茂によるロックバンド。'69年結成、'73年解散。日本語によるロック表現を追求し、後の日本の音楽シーンに大きな影響を与えた。代表作に『風街ろまん』など。
[10] ガロ : 青林堂から発行された漫画雑誌。1964年-2002年頃。前衛・実験的漫画を掲載し、商業誌とは一線を画す表現を数多く生み出し、日本のサブカルチャー史に大きな影響を与えた。
[11] 白土三平 : 漫画家。代表作に『サスケ』『カムイ伝』など。シリアスで重厚なストーリーと画風で劇画ブームを築いた。『ガロ』はもともとは白土の『カムイ伝』のために創刊された。2021年逝去。
[12] つげ義春 : 漫画家。『ねじ式』『無能の人』などで知られ、『ガロ』を代表する作家の一人。私漫画的表現で後世に大きな影響を与えた。2026年逝去。
[13] 赤瀬川原平 : 前衛芸術家・作家。「トマソン」「路上観察学会」などの活動で知られる。2014年逝去。
[14] 谷川俊太郎 : 詩人。'52年に詩集『二十億光年の孤独』でデビューし、詩、翻訳、絵本、作詞など幅広く活動した。代表作に『生きる』など。2024年逝去。
[15] パックインミュージック : TBSラジオで'67年から'82年まで放送された深夜ラジオ番組。若者文化を代表する深夜番組の一つ。
[16] ナッチャコ : TBSラジオ『パック・イン・ミュージック』で野沢那智と白石冬美が担当した「ナチチャコ・パック」の通称。'69年から'71年、'72年から'82年などに放送された。「ナチチャコ」の表記も。
[17] 林美雄 : TBSアナウンサー、ラジオパーソナリティ。'70~'74年に『パック・イン・ミュージック』金曜第2部を担当し、「林パック」の愛称で人気を集めた。映画や音楽など既成のメディアでは紹介されにくい作品・人物を積極的に取り上げ、荒井由実(松任谷由実)を早くから評価したことでも知られる。2002年逝去。
[18] ATG : 日本アート・シアター・ギルド。'60年代から’80年代にかけて活動した映画会社。実験的なアート志向の映画を数多く製作した。
[19] アングラ演劇 : '60年代中期から'70年代前半にかけて日本で盛んに行われた前衛的・反体制的な演劇運動。唐十郎の「状況劇場」、寺山修司の「天井桟敷」や、「黒テント」などが有名。
[20] 日活ロマンポルノ : '71年から日活にて制作・配給された成人映画レーベル。低予算ながらポルノ映画としてある程度のフォーマットをおさえれば他は自由度の高い作品制作ができたため、若手映画クリエイターの芸術性が発揮できる場となった。
[21] 山本コータロー : フォークシンガー、シンガーソングライター。フォークグループ「ソルティー・シュガー」を経て、『走れコウタロー』などで知られる。山本コウタロー名義でも活動した。2022年逝去。
[22] 小室等 : シンガーソングライター。フォークグループ「六文銭」を結成し、『出発の歌』などを発表。吉田拓郎、井上陽水らとフォーライフ・レコードを設立した。
[23] 馬場こずえ : ラジオパーソナリティ。パックインミュージックの木曜(水曜深夜)担当。のちのシティポップに繋がる「ナイアガラ系」や「ティン・パン・アレー系」の音楽をいち早く世に紹介したことで知られる。
[24] 針生一郎 : 文芸・美術評論家、思想家。戦後日本の前衛芸術や文学を論じ、漫画やサブカルチャーにも理解を示したことで知られる。2010年逝去。
[25] 劇画アリス : アリス出版から'77年に創刊された自動販売機向けの劇画雑誌。三流劇画ブームを代表する雑誌の一つで、吾妻ひでお、近藤ようこ、坂口尚らも執筆した。編集長は亀和田武。
[26] 漫画エロジェニカ : 海潮社が発行した月刊漫画雑誌。’70年代後半の三流劇画ブームを代表する雑誌の一つで、川崎ゆきおら『ガロ』系の漫画家も執筆した。’78年11月号が発禁処分を受けたことでも知られる。
[27] 官能劇画 : みのり書房より発行されていた、エロ劇画誌。創刊は'75年ごろ。
[28] 漫画スカット : 『官能劇画』と同じく、みのり書房から発行されていたエロ劇画誌。'75年ごろ創刊。
[29] 鈴木翁二 : 漫画家・イラストレーター。『ガロ』を中心に活動し、幻想的で叙情的な作風で知られる。代表作に『東京グッドバイ』『虚空物語』『オートバイ少女』など。
[30] ディスクユニオン : 首都圏を中心に展開する音楽CD・レコード販売の大手チェーン店。ディスクユニオンの店名は'69年からで、お茶の水が本店だった。
[31] 岩波ホール : '68年に東京・神保町に開館した映画館。'74年から「エキプ・ド・シネマ」運動を開始し、欧米以外の国々の作品や、大手興行会社では上映されにくい映画を積極的に紹介。日本のミニシアター文化を代表する存在となった。2022年閉館。
[32] ジャニス : お茶の水にあった貸しレコード・CD店。創業は'81年。凄まじくマニアックで膨大な量の品揃えで、音楽マニアを唸らせた。
[33] L : 月刊OUT編集部員。OUTきっての才女と呼ばれた。編集部見学に行き、Lさんにお茶を出してもらった読者は多い。
[34] 大徳哲雄 : 月刊OUT四代目編集長。編集部員としての表記はT。詳しくは当サイトのインタビューをご覧ください。
[35] 鉄腕アトム : 手塚治虫によるSF漫画。'52年から'68年まで、光文社の月刊誌「少年」に『鉄腕アトム』として連載された。21世紀の未来を舞台に、10万馬力のロボット少年・アトムの活躍を描く。'63年には虫プロダクション制作のテレビアニメとなり、日本初の30分テレビアニメシリーズとして、後の日本のテレビアニメの歴史に大きな影響を与えた。
[36] ゲゲゲの鬼太郎 : 水木しげるによる妖怪漫画。アニメ版第一作は’68-’69年放映、東映動画(現東映アニメーション)制作。妖怪と人間の間に立つ鬼太郎の活躍を描き、以後もたびたびアニメ化された。2018-2020年には第6作が放送された。
[37] サイボーグ009 : 石ノ森章太郎によるSF漫画。劇場版アニメは'66年公開、東映動画制作。'68年にテレビアニメ版が制作された。特殊能力を持つ9人のサイボーグ戦士が悪の組織と戦う物語。2026年には新作『サイボーグ009 ネメシス』が配信された。
[38] どろろ : 手塚治虫による漫画作品。身体の48か所を魔物に奪われた百鬼丸が旅を続ける物語。アニメ版は虫プロダクション制作、'69年。2019年にリメイク。
[39] 米澤嘉博 : 漫画評論家、コミックマーケット準備会第二代代表。OUTでは『簡単漫画時評』『病気の人のための漫画考現学』を連載した('80年12月号から’82年2月号)。2006年逝去。
[40] ストーカー : ロシアのSF作家、ストルガツキー兄弟による小説。同兄弟による脚本でアンドレイ・タルコフスキーが制作した映画版が、多方面に大きな影響を与えた。
[41] アンドレイ・タルコフスキー : ソ連の映画監督。『惑星ソラリス』『鏡』『ストーカー』など、詩的で哲学的な映像表現によって世界的に高く評価された。'86年逝去。
[42] 夢枕獏 : 小説家。'77年にタイポグラフィ『カエルの死』でデビュー。『キマイラ』『魔獣狩り』『陰陽師』『餓狼伝』などのシリーズで知られる。他の代表作に『上弦の月を喰べる獅子』『神々の山嶺』など。OUTのインタビューは'85年3月号。
[43] 菊地秀行 : 小説家。'82年に『魔界都市〈新宿〉』でデビューし、伝奇・ホラー・SF作品を数多く発表。代表作に『魔界都市』シリーズ、『吸血鬼ハンター“D”』シリーズなど。OUTのインタビューは'85年4月号。
[44] 光瀬龍 : SF作家。高校教師を務めながらSF同人誌「宇宙塵」に参加し、'60年代から作家として活動。代表作に『百億の昼と千億の夜』『たそがれに還る』『夕ばえ作戦』など。'99年逝去。OUTでは'84年4月号に萩尾望都との対談を掲載。光瀬はOUTの創刊号を持っていたそうだ。
[45] 萩尾望都 : 漫画家。代表作に『ポーの一族』『トーマの心臓』『11人いる!』など。竹宮恵子・大島弓子・山岸凉子らと共に「花の24年組」と呼ばれた。少女漫画にSFや幻想的な表現を導入し、後の漫画表現に大きな影響を与えた。OUTでは'84年4月号に光瀬龍との対談、'86年12月号にインタビューが掲載されている。
[46] C : 月刊OUT編集部員、後に『アニパロコミックス』編集長。OUTでは投稿コーナー『ミックスサンド』などを担当した。
[47] 淀川長治 : 映画評論家。テレビ番組『日曜洋画劇場』の解説者として親しまれ、「サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」の締めの言葉で有名。'98年逝去。
[48] 田中小実昌 : 小説家・エッセイスト・翻訳家。独特の語り口による随筆や酒場にまつわる作品、映画エッセイなどで知られる。2000年逝去。
[49] おすぎ : 映画評論家・タレント。双子の弟はピーコ。テレビや雑誌で映画評を多数発表した。
[50] 筑紫哲也 : ジャーナリスト、ニュースキャスター。『NEWS23』のメインキャスターとして長く活躍した。2008年逝去。
[51] テオ・アンゲロプロス : ギリシャの映画監督。『旅芸人の記録』『シテール島への船出』『霧の中の風景』『永遠と一日』など、長回しを多用した詩的な映像表現で知られる。’98年『永遠と一日』でカンヌ国際映画祭パルム・ドールを受賞。2012年逝去。
[52] シテール島への船出 : テオ・アンゲロプロス監督・脚本によるギリシャ映画。'83年製作・日本公開'86年。長くソ連に亡命していた元共産主義者の老人が故郷に帰還する物語を通して、政治的理想の喪失や故郷への帰属を描く。'84年カンヌ国際映画祭でFIPRESCI賞と脚本賞を受賞。
[53] カリフォルニア・ドールズ : '81年公開の米国映画。女子プロレスラーのコンビを描いた作品で、監督はロバート・アルドリッチ。
[54] ひめゆりの塔 : '82年公開の日本映画。今井正監督。沖縄戦末期に看護要員として動員された「ひめゆり学徒隊」の少女たちを中心に、戦場での過酷な体験と犠牲を描いた作品。沖縄戦を題材とする代表的な反戦映画の一つ。
[55] E : 月刊OUT編集部員。『ミックスサンド』や『花小金井かんとりい倶楽部』などの投稿コーナーを担当。のちに扶桑社『週刊SPA!』編集長。
[56] 架空の人物 : ’84年8月号からGと「つげしゅうこ」という人物の対談、というスタイルでの映画評となるが、'85年5月号にはコーナー自体が終了する。
[57] Y : 月刊OUT五代目編集長。編集後記は家族ネタが多かった。ラーメン丼をかぶったイラストは、宴会芸から。
[58] 戸島竹三 投稿常連。後述の『人生冗談』ちむぼスタンプネタでヒーローとなった。実は映画の感想などの投稿も載っている。
[59] やすだののぶ : 投稿常連。映画や小説についての軽やかなエッセイ風イラスト・漫画は、ちょっと高野文子を思わせた。
[60] ユーリ・ノルシュテイン : ロシアのアニメーション作家。『話の話』などで知られる。アート系アニメーションの代表格のひとりで、質の高い手描きの作品に日本のファンも多い。
[61] ライムスター宇多丸 : 日本を代表するヒップホップグループ「ライムスター」のMC。ラジオ番組『アフター6ジャンクション2』では幅広いカルチャーを題材にしているが、特に「本気の映画批評」で有名。
[62] スタジオHEGE : ライター集団。創設は中村治彦。'89年当時は『常識探偵団』というコーナーを構成していた。創設の経緯については当サイト、なかむら治彦さんのインタビューに詳しい。
[63] 古川耕 : 作家、放送作家、音楽プロデューサーなど多方面で活躍し、特に「ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」の構成作家として知られる。HEGEの若手メンバーとしてOUTにかかわり、「世直し団」では写真企画にはっちゃけた出演を残している。
[64] ALLAN : みのり書房から発行された雑誌('80-'84年)。編集長は月刊OUT三代目編集長の南原四郎。「耽美」をコンセプトに、美少年にまつわる漫画・小説・記事などが掲載された。
[65] 南原四郎 : 月刊OUT三代目編集長('79年4月号から'80年8月号まで)。後に『南原企画』を立ち上げ、『ALLAN』『月光』などの雑誌を編集した。
[66] いまを生きる : '89年公開の米国映画。原題は“Dead Poets Society”。若さと自由・個人などをテーマに教師と生徒たちの交流を描く。主演はロビン・ウィリアムズ。アカデミー賞・脚本賞受賞。
[67] 型破りな教室 : 2023年製作のメキシコ映画『Radical』の日本公開題。国境近くの小学校に赴任した教師が、型破りな授業によって子どもたちの学力と意欲を伸ばしていく実話を描く。監督はクリストファー・ザラ。
[68] ぼくたちの哲学教室 : 2021年製作のドキュメンタリー映画。北アイルランド・ベルファストの小学校を舞台に、哲学の授業を通して子どもたちが対話し、考える力を身につけていく姿を描く。ナーサ・ニ・キアナン、デクラン・マッグラ監督。