月刊OUTって、何だったのかな? 月刊OUTって、何だったのかな?

かつて「月刊OUT」というアニメ/サブカル誌がありました。
元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
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霜月たかなかさん( 1 | 2 | 3 | 4 )
インタビュー:霜月たかなかさん(その1)
霜月たかなかさんは、'79年から月刊OUTに連載を持たれていたアニメ評論家・ライターです。同時に「アニメ・ジュン」というペンネームも使われていましたが、別人だと思っていた読者も多いのでは。テレビアニメ評論における先駆者の一人として、月刊OUTの硬派なイメージを形作るのに決定的な役割を果たした方だと言えるでしょう。その一方で、無署名のアニメ紹介記事から、過激なアニパロまで幅広く担当されており、まさに月刊OUTを語る上では欠かせない存在です。

そして、今や知らない人はいないビッグイベントとなったまんが同人誌即売会「コミックマーケット」の創始者のお一人でもあります。代表を務められていた’75年の第1回から’79年の第12回の経緯を書かれた著書『コミックマーケット創世記(朝日新書)』は、当時の熱いオタク文化を追体験できる一冊で、お読みいただいていると本インタビューも、より楽しんでいただけるかもしれません。
略歴
'51年埼玉県生まれ。'75年に亜庭じゅん、米澤嘉博と共に漫画批評集団「迷宮」を結成し、「コミックマーケット」の初代代表となる。'80年に代表を辞し、以降はアニメ・漫画を中心としたサブカルチャー方面のライター、評論などの活動をし、現在に至る。東京造形大学・東洋大学・文化学園大学・同志社大学などで、まんが及びアニメーション専攻の非常勤講師も担当した。「コミックマーケット創世記」(朝日新書)他、著書多数。本名・原田央男(てるお)。

(聞き手:OUT勝手連 SII/WH/KN、 イラスト:私の本)

インタビュー:2026年8月2日
公開日:2026年10月02日


OUTで仕事を始めるまで
「調子にのって引き受けちゃった」

我々はたまたま3人とも'71年生まれなんです。OUTの読者になったのはだいたい10周年前後('85年)ぐらいからで、そこから休刊('95年)まで。だから、OUTの前半についてあまり知らないんです。ガンダムを中心としてアニメが盛り上がった頃は子供で、いまOUTを読み返すと、その当時の大人・20代以上の人たちの語り方というのはとても新鮮だったんですね。そんなことを念頭に置きつつ質問をさせていただければ。

まあ大人というほど成長はしてなかったんだけどね。OUTの前半を知らないってことは、OUTが最初にサブカルマガジンでスタートした[1]っていうのは知らないんですか。

10周年を振り返る企画[2]とかでは知ってましたし、後になって詳しく知りましたが、実体験としては持っていないんですよ。

それはそうだよね。'60年代から'70年代の、学生たち・若者たちの数がばーっと増えたときの若者文化の中に、サブカルブームと今の同人誌みたいなミニコミブーム[3]というのがあって、その盛り上がりに便乗して誕生したのがOUTだから。最初は本当にサブカルマガジンで、2号目にヤマト特集をやって、それが売れちゃったので、じゃあ売れる方にっていう、そういう前身があってあなたたちの知ってるOUTがあるってことだね。

最初に、霜月さんが月刊OUTでお仕事を始められるまでの流れについて伺えますでしょうか。

大徳氏[4]がインタビューで言ってる通り、12回目だったかのコミックマーケット当日の合宿で、渋谷の東急修学旅行会館というところで合宿をやってたんです。僕はコミックマーケットの代表として取り仕切る側だったんだけど、その合宿に大徳さんが来て、名刺交換して知り合って、「こういうアニメの記事を書く人がいないから書いてくれないか」みたいな話になった。具体的にはあんまり覚えてないんだけど。

大徳氏はもうサブカル時代からOUTの編集部に参加してたから、彼としては、OUTがアニメ誌に変わりつつある中でアニメの記事をやってくんだったら、誰かアニメに詳しいやつを、というので声をかけたはずだよ。

まだアニメ文化みたいなものが大きくなっていなくて、サブカルチャーの一つだったという感じなんでしょうか。

サブカルでもないよ。アニメというのはまだ子供のもので、「テレビまんが」って言われていた時代。それになぜか若者が食いつくようになったのがちょうどその頃でね。だからテレビまんがについてまだ語れる人がいなかったっていうのと、もう一方で、それとは別にディズニーとかに代表される本格的なアニメーションの流れがあったんだけど、そっちはそっちで、やっぱり専門の映画評論家がいたけど、そういう評論家はテレビアニメは語らなかった。多分それでこっちに白羽の矢が立ったと思うんだけども、大徳氏がインタビューで言った、僕がアニメにやたら詳しいっていうのは、全くの誤解。

えっ、そうなんですか?

だって僕はもともとは漫画専門で、漫画だったら詳しいよ。でもアニメはあまり知らなかった。1963年に『鉄腕アトム』[5]が始まって、その頃は小学生だったから、いちおうずっとアニメは見てはいたわけ。中学生くらいまではほぼ全部見ていたし。それでこっちも、「見てないよりはマシだろう」ぐらいの感じで引き受けちゃったからね。だから、動機はすごくいいかげん。もちろんその後はいろいろ勉強したよ。情報を集めて最低限の知識を得たり、放映されているアニメも全部見るようになった。だけど大徳氏と会った時にアニメに詳しかったというのはまったくの彼の誤解です。

でも、すでに大徳さんが霜月さんの文章をたくさん読んでいて、これはぜひ書いてほしい、ってなったんですよね。

それも違うんだよ。『コミックマーケット創世記』[6]にも書いたけれども、もともと僕は'73年ごろに東京で漫画の評論の同人誌を仲間とやってて、そのころ関西でもやっぱり漫画評論の同人誌があって、そこのメンバーが1人、就職で東京に上京してきた。それで、じゃあ一緒になって東京で漫画の評論の本を作ろうというので、「迷宮」[7]という同人サークルを作った。

そこで『漫画新批評大系』っていう同人誌を青焼きコピーで作ったんだけど、それを読みたい人に知らせる手段がないわけ。それまでは『COM』[8]っていう、そういう同人誌なんかにも目配りしてる漫画専門誌があったので、そこの読者欄を通じて告知ができたんだけど、『COM』が休刊で無くなっちゃった。じゃあ同人誌を売る場を作ろうっていうので、「迷宮」がコミックマーケットを始めた。

その際に「迷宮」の中で、コミックマーケットの担当者と評論の担当者を別に立てたのね。評論の担当は亜庭じゅん[9]っていう、これはもうすごく筆の立つやつで、彼がもっぱら書いていた。もちろん僕も書いてはいるんだけども、量的には微々たるものなの。まあ悪く言ったら、亜庭じゅんに丸投げ。だから、僕はそもそもそんなに書いてないから、大徳氏がそんなに僕の文章を読んだわけじゃないんだよね。たまたま『新批評大系』に書いている一人、くらいの認識だったんじゃないのかな。だけど原稿を頼まれて、その頃は作文に毛が生えたみたいなものでしかなかったんだけど、こっちも調子に乗って、「いちおう書いてるからいいか」みたいな感じで引き受けちゃったわけで。

それで数年間、OUTで書いてらっしゃいました。そのあいだOUTでのアニメの仕事は、霜月さんの全体の仕事の中で、どのぐらいの比重だったのでしょうか。

ちょうどそのころ'77年から4年間ぐらい、印刷会社で働いてたんですよ。並行してコミックマーケットの代表もやってたんだけど、僕もまともな社会人に向いてる人間じゃないからさ、会社に長くいることもできないだろうと。じゃあ仕事をどうしようって時に、フリーライターって選択肢もあるのかな、いちおう『新批評大系』でみんなとやってたし…っていうすごい安易な考えが出てきて。そこにちょうど大徳氏の話があって、それで評論めいたもの…評論てほどじゃないけど、それをOUTに書き始めた。だから印刷会社には悪いことをしたけど、4年で辞めて、'81年からフリーライターを専業で始めたという。

アニメ評論黎明期
「だいたい三割ぐらいは読者の意見が正しいんだよ」

最初の記事が、この『アニメーション・フィーバー"79"』っていう…これですかね('79年4月号)。

見せなくていいよ、いま見ると恥ずかしいから(笑)。

この最初の回でそのころ放映されていた『キャプテン・ハーロック』[10]の批評を書かれていますが、それまで、OUTの読者も評論というものをよく知らなかったのではないかと。

評論そのものを知らないことはなかっただろうけど、アニメに関する評論ってあまりなかったし、あっても、アニメブームに対して社会学者がどうのこうのとか、見当はずれなものばっかりだったんだ。あるいは、さっき言った映画評論家みたいな、そういう立場からディズニー作品とテレビアニメを比べてどうこう、みたいな書き方をしてるから、読者にしてみればとんちんかんな意見にしか見えなかったと思う。だから、その時にアニメそのものに寄り添って書いたという意味では、目新しかったのかもしれないよね。

そういうストレートな評論もあるんだということを、読者が初めてそこで知ったということですかね。

ただこの時期は評論って言っても、本当に恥ずかしいんだよね。いま見るとちょっと…いちおう評論めいたもの、といえる程度で。それでも、さっき言った『新批評大系』をやってる時に、亜庭じゅんの評論に追いつこうとしてあるていど鍛えられたのと、ラッキーなことに、テレビアニメにはほとんど漫画の原作があるわけ。漫画に関してならこっちは詳しいから、それでなんとかなっちゃったみたいな。

でも最初の時点ですでに、評価することに対して、いわば骨が固まっていたという印象があります。

うん、『新批評大系』をやってる時に、亜庭じゅんとか米澤嘉博[11]とか論客がたくさんいて、その中に混じって毎週徹夜で喧々諤々論争やってたわけだから、そこで鍛えられたんだろうね。評論を書くというよりも、作品の読み取り方を教えられたっていうかね。この作品はこういうところを見て、こういうふうに分析してっていう…要するに感想じゃいけないんだと。そういうことは、ある程度できていたかもしれない。でも、自信を持っては言えないんだけどさ(笑)。

確かに、何が良くて何が悪いかっていう、その基準は、すごくはっきりした上で書かれていたように思います。

一方で問題もあって、'70年代末だと僕は'51年生まれだから、もう30歳近かったの。でも読者は10代とか20代じゃない? だから30代のおじさんに近い人が批評を書いているわけで、それはたぶん読者もずいぶん(違和感が)あったと思う。それをなんとか理屈をこねて形にして読者に近づけてた、みたいな感じかな。そのへんも大徳氏はわかって使っててくれたとは思うんだけどね。

大徳さんは同い年くらいですか。

いや、二つか三つ、彼の方が下だったかな。

当時OUTのほかに、何誌くらいでお仕事をされてましたか。

これも専業でライターを始めたばかりなのにラッキーでさ、ヤマトのブームのおかげで若者たちが盛り上がって、『アニメージュ』[12]とか、アニメ情報誌がばんばん出てきたのよ。その中に『月刊アニメーション』[13]というのもあった…ただし数年で潰れちゃったけども。あのころ、コミックマーケットに出品してた「東京アニメーション同好会(アニドウ)」の会報で『FILM1/24』[14]っていうのがあって…知らないよね? 月刊アニメーションはその「アニドウ」の会長の紹介でライターとして関わることになったんだけど。

あともうひとつ『ジ・アニメ』[15]っていう近代映画社から出ていた雑誌、この二つからも仕事が舞い込んでね。専業になったらいきなり毎日原稿書きに追われるようになって、フリーライターとしてなんとかなっちゃった。ふつう会社を辞めたらしばらく無職なんだけど、間髪入れずにそれらに移行できたから、それはすごくラッキーだったね。

そういう形で、どんどんアニメに仕事の比重が移っていったという感じでしょうか。

移っていったというよりは、フリーライターなんてそれこそどこにでもいるから、逆に「僕はアニメ専門のライターです」って売り込みをしたわけ。

雑誌によって違いはありましたか。

ぜんぜん違った。OUTでは評論を書いてて、ジ・アニメなんかでも解説を書いていたんだけど、そっちは完全に小学生向けの雑誌だったから、すごく優しくわかりやすい記事を書いていたよね。評論ではなく、意図的に、本当に感想文に近いものにした。じゃないと読者はわからないから。

じゃあ、評論という意味ではOUTがけっこう中心だったと。

そうだね。あと月刊アニメーションっていうのは、いわゆる本格的なアニメーションの好きな読者にも向けて作っていたから、さっき言った映画評論家の人たちも書いてたのよ。そこに混じって書いていたから、そこは逆にOUTとは別の意味で、ちょっと無理して映画評論家っぽいものを書こうってやってたね。幸い実写映画も大好きで、そのころたくさん見ていたから。

OUTを贔屓するような言い方になっちゃいますけど、OUTがいちばん書きやすかったとか、好きなことを書いていい、というような感じはありましたか?

いや、いちばん楽なのはさっき言った感想文っぽいやつだった。反対に評論を書く以上は…初期のころは評論とは言えないかもしれないけども、体裁はいちおう評論なわけだから、とにかく緊張感バリバリで書いていたよ。だってそれでお金をもらってるんだもん。だからがんばって難しい本を読んでさ、評論らしい形にするわけだよ(笑)。それでたくさん仕事が来て嬉しかったんだけど、ある程度こなれた文章を書けるようになるまでは楽じゃなかった。毎月毎月ギャーッて言いながら…もともと手が遅いから、いつも締め切りぎりぎりで大徳氏に泣きついては書き上げてたんだよ。

まあでも本当に、OUTがなかったら僕はライターにはなれなかったよね。

最初の記事でいきなり読者からいろんな反論とか反応のお手紙があって、次の号の記事に載っていますが。

うん、アニメブームで若者が真剣にアニメに向き合って、普通だったらそんな記事なんか読み飛ばされるところを、ちゃんと必死になって読んでる読者がいたんだね。それもラッキーだった。そうしたらこっちもきちんとボールを返さなければいけないから、熱も入るしね。

それで読者からの手紙って、だいたい三割ぐらいはそっちの意見のほうが正しいんだよ(笑)。でも一生懸命「いやそれはね」とか屁理屈こねて、自分が正しいんだ、みたいな方向に持っていったりしたんだけど。だからそういうことが許された状況の中でなくていきなり評論家なんて名乗ったら、とっくにパージ(排除)されてたと思うけど、まだアニメ文化の黎明期だったあの時代だから許されたんだろうな。

’80年代前半にいろんなアニメ雑誌が出た時期に、私たち当時の小学生・中学生の目から見て、OUTはパロディとともにそういう難しい批評的なことも書く雑誌だという印象がありました。その当時、霜月さんご自身はOUTをどういう雑誌としてとらえていましたか。

純粋なアニメファンはやっぱりアニメージュにいっちゃうもんね。ははは。だからOUTってちょっとひねくれた見方をしてるやつとか、そういうファンがよく来るのよ。あるいはアニメージュのサブリーダー(副読本)として読むとかね。あの頃あるていど小遣いがあるファンだったら、アニメージュの他に何誌か買ってただろうしね。

大徳氏はもともと意識が高いから、OUTに評論っぽいのを入れて、それがOUTの特徴になって、ひとつの差別化にはなったんだけれども、それもけっこう賭けだったとは思うよね。だいたいあの時期にアニメ雑誌として単純に雑誌を売ろうと思ったら、普通はその中に評論を入れようなんて発想はしない。だから、大徳氏だからこその決断だよね。

やっぱり出自がサブカル誌だし、それに大徳さんの信念みたいなものが加わって、という。

うん、あとはみのり書房の経営者がそれに対して何も言えなかったから(笑)。

好きにやらせてくれたと。子供心にもちょっと特異な、変わった雑誌だという印象はありました。

ヤマトとガンダム
「ガンダムまではきつかった」

我々としては、そういう場所にいたOUTが、当時から今に至るまでにどういうふうにオタク文化・アニメファン文化に影響を与えてきたか、もしくは与えたことがあっただろうか、というところに興味があるんです。

うん、この時のOUTって、あの内容はほとんど2ちゃんねる[16]を先取りしてるよね。そういうことを面白がる若者がいたとしたら、そのへんの意識にうまく2ちゃんねるよりも早く反応できたのが、OUTだってことは言えると思う。今はたぶんYouTubeとかSNSだったりするだろうけど、時代ごとのメインストリームに対して、読者の立場から何かひとこと言いたいっていう若者たちの気持ちに寄り添った雑誌。アニメに限らなければ、昔から朝日ジャーナル[16]とか、評論だけで雑誌が成り立つっていう状況も日本にはあったからね。

あともうひとつ言うと…あなたたちはもちろんヤマトは見てるよね?

まあ子供の頃に…って感じでしょうか。

ヤマトとガンダム、どっちが引っかかった?

世代的にも、ガンダムですかね。

こちらもガンダムだけど、ヤマト[18]ってガンダムが出てくる前なのよ。だからライターを始めた時にはガンダムはまだなくて、ヤマトに反応したのは、当時の高校生から大学生ぐらいだったけど、僕はその時もう30近かったから、ヤマトに対する見方が全然違った。あの頃そういう若い世代は熱狂したけど、でも僕はその年齢だったし、けっこうSFオタクだったから、ヤマトの映画が封切りになって観てみると、「なんじゃこれは、ひでえな」と(笑)。

宇宙戦艦一隻で敵艦隊に突っ込んでいって勝っちゃって、こんな馬鹿な話があるかって。おまけに昔の戦艦を飛ばしてさ、「これ下から攻めたら一発じゃん」みたいな、矛盾ばかり見えちゃうわけよ。ほとんど全壊したみたいになった時も、次の回で全部直ってたりとかね。こんな脚本でSFを名乗るな、と。

それで、ライターになった最初はちょうどヤマトのころだったから、そういう意味じゃ原稿を書くのに苦労したね。あからさまに貶しちゃうと読者は怒るし。だから、本音を言わずにいかにそのへんをうまく…ヤマトを認めつつもこの展開はいかがなものか、みたいな形で、結果として褒めてますよっていう(笑)、それがすごく難しかった気がするな。そうやって一生懸命原稿を書いてはいたけれども、それが初期はきつかった。今でもヤマトに対しては批判的だしね。

だからガンダムが出てきてすごく助かった。ガンダムはぎりぎり、これはなんとかSFで括れるなと思ったから。

雑誌の舵取りとしても、途中でガンダムを中心にやっていくぞという決意が見られますよね。

うん、アニメージュなんかはもろに最初からヤマト推しだったからさ。そういう意味では、やっぱりOUTの方はガンダムを作品的に対比させてたと思う。

ガンダムを推していくというのもひとつの賭けだったような気もしますけど。

そうだね。だってガンダムの情報が最初に編集部にきた時に、僕は数多あるロボットアニメの一つくらいにしか見てなかった。でも実際に見て、あーって思ったもんね。それだけやっぱりガンダムはすごかった。

ただし補足しておくと、いまヤマトをめちゃくちゃ貶したけれども、その一方で、なぜ高校生や20代ぐらいのファンがヤマトにのめり込むかというのは、自分なりに分析してたから。そこは肯定してたし、絶対に否定しなかった。あなたたちが言うことはよくわかる。そこは否定しませんよと。ただ、自分個人としては肯定しませんよと。

そういう何らかの魅力があることは間違いない。

そう、あの若者たちの世代にうまく取り入ったなって感じだった。

我々はガンダムが出てきて世界を塗り替えちゃった後にやってきた世代で、非常に消費者的に受け取ってきたという感じがします。

うん。確かにガンダムはすごいなとは思ったけれども、あそこまでヒットするとは思わなかったもん。こちらから見てマニアックに凝りすぎちゃってて、若い人から敬遠されるんじゃないかな、ぐらいに思ってたから、ヒットしてびっくりした。

確かに当時のお話を聞いても、みなさん、ガンダムはすごいけど売れないだろうな、みたいな感じでおっしゃってました。

その一方で、すごいと思ったやつは「この面白さは俺しかわからないだろう」みたいなところもあったよね。

アニメ評論ライターとペンネーム
「心強い一方で仕事ではライバルだから」

当時、霜月さん(アニメ・ジュンさん)とか南田操さん[19]もOUTで評論をお書きになっていらっしゃいましたが、その頃そういうアニメ評論という形でやっていた方って、他には記憶にありますか。それとも自分たちしかいない、みたいなイメージだったんでしょうか。

先に言ったように、映画評論の方で有名な、ディズニーとか世界のアニメーションに詳しい森卓也[20]っていう映画評論家が、先達としてすでにいました。この方はそういう目線で…当時の若い人たちに読んでもらえないというのはあったけど、ものすごい蘊蓄を持ってる人だから書くものの内容自体もすごくて、そういう人に対しての敬意は当時からありました。

ただその当時流行ってたテレビアニメとかについて語るのであればやっぱり自分たちしかいないだろうなとも思っていたわけで。あとは小黒(祐一郎)くん[21]とか、他界した池田憲章[22]氏とか…アニメージュなんかも評論はやってなかったわけじゃなくて、両氏とも評論に近いものを書いていたし、そういうアニメライターの人たちは結構いましたよ。それから氷川竜介[23]氏とか。彼はその頃はあんまり名前を出してないので、あの頃から書いてたんだって僕も最近知ったけどね。

アニメの世界を評論していくということについて、そういう方々に親近感は持っていらっしゃいましたか。

それはやっぱり、同業者がほかにいるというのは心強かったよね。でも一方で、仕事上ではライバルだから。だから特に親しくしようとは思わなかったけど、どんな記事を書いてるか、とか常に気にはかけていた。でも交流はほとんどなかったなあ。というのは、池田憲章氏とか小黒くんはアニメージュの編集部でずっと仕事してたから、OUTで仕事してた自分としてはちょっと近寄りがたかったっていうのはあるんだよね。だからこれは想像だけど、向こうは向こうで、OUTのライターとは違うんだという派閥意識みたいなのをひょっとしたら持っていたかもしれない。ライターじゃないけど、向こうのある編集者からすごく嫌われていたっていう覚えがあるし(笑)。

OUTという雑誌の位置付けもあるし、独立愚連隊的・アウトロー的なイメージがあったんですかね。

雑誌の性格も出版社も違うし、そういう意味で、同じ業界の中にいるっていう意識はあっても、やっぱり交わったりはしなかったよね。顔を合わせたこともほとんどなかったし。

OUTという雑誌の中ではどうでしたか。例えばRIIさん[24]も評論というかアニメについてよく長い記事を書かれていたりしましたが。

あの人はガチガチのアニオタだもん。こっちはあるていど仕事って意識で書いてるけど、向こうは心の底から好きでやってるから、そういう意味じゃ勝てんわね。もちろん視点・論点が全然ずれるんだけどさ。だってあの人の場合はグラビア記事がほぼ評論になっちゃうんだよ。グラビアなのに「文責・RII」とか書くんだもん(笑)。そんなことを書く編集者がいるのかよって(笑)。

T編集長もいろいろと文章を書いていらして。ガンダムの記事とかもありましたが、当時の状況を俯瞰するみたいな文章を書かれていました。

俯瞰といっても、まだ今のアニメ業界に比べたら規模が小さいから、それで俯瞰できたというね。

今ではそういう全体を見通すみたいなことがかなり難しくなってしまって。

そうだね。仕事柄、いちおう見るようにしてるけど、なかなか目が行き届かない。

全ての作品を見ることは不可能、みたいな時代になってしまったし。

どう考えたって、完全に不可能でしょう。だってワンクールあたり、多いときは80作品ぐらいテレビアニメが制作されてるでしょ。

ご自分の「アニメ・ジュン」さんと「霜月たかなか」さんの二つのペンネームを、どう使い分けられてたんですか。途中でもう混然一体となっている感じもしましたが。

「霜月たかなか」は、コミケを始める前に大学の漫研でアニメっぽいものをみんなで作ったことがあって、その時、僕が監督だったので、監督名として作ったのかな。だから元々はライターとしてのペンネームじゃなかったんだ。それでアニメ・ジュンはOUTに執筆するようになったころ、まだ迷宮の活動をやっていたんだけど、さっき言った亜庭じゅんというのがプロはだしの筆力を持っていたもんだから、周りの誰もが対抗意識を持っていて。それで、米澤嘉博は「阿島俊」っていうペンネームにして、じゃあ自分は「アニメ・ジュン」だっていう、そういうダジャレで作ったペンネームなわけで(笑)。

後に『アニメ・ジュンの大発見』と『鏡の国のアニメーション』[25]という二つの連載を持たれていますが、ペンネームは内容で変えられてたんですかね。

アニメ・ジュンの場合は、評論といっても最初から固い内容のものを書くわけにいかないから、なるべく柔らかい文章でOUT読者の感覚に波長を合わせようと思って、そのためのペンネームがアニメ・ジュン。その後でもっとカチッとした硬い評論を書こうとした時に、霜月たかなかを名乗って使い分けたのね。

最初は読者も混乱したんじゃないですか。途中でお二人が対談してますし(笑)。

ははは。ちょっとふざけてね。でもそれは騙そうとしてペンネームを二つにしたわけじゃないから。

(→ その2につづく)

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[1] 初期のOUT : 月刊OUTの最初期は大学生向けのサブカル誌であり、創刊号の特集は金田一耕助とレイ・ブラッドベリ、他に海外政治ルポやハードボイルド小説などが載っていた。この頃の姿については当サイトの大徳哲雄さんインタビュー第二回をご覧ください。

[2] 10周年を振り返る企画 : ’87年5月号「不滅のOUT10年史」に、それまでのOUTの歴史が詳しく記されている。

[3] ミニコミブーム : ’70年代を中心に広がった、小規模な自主発行の情報誌・出版物のブーム。既存のマスメディアでは扱われにくい地域情報や特定の趣味・思想などを扱い、若者や市民の自主的な情報発信の場となった。

[4] 大徳哲雄 : 月刊OUT四代目編集長。編集部員としての表記はT。詳しくは当サイトのインタビューをご覧ください。

[5] 鉄腕アトム : 手塚治虫によるSF漫画。'52年から'68年まで、光文社の月刊誌「少年」に『鉄腕アトム』として連載された。21世紀の未来を舞台に、10万馬力のロボット少年・アトムの活躍を描く。'63年には虫プロダクション制作のテレビアニメとなり、日本初の30分テレビアニメシリーズとして、後の日本のテレビアニメの歴史に大きな影響を与えた。

[6] コミックマーケット創世記 : 霜月たかなかによる、'70年代まんが黄金時代のコミケ誕生秘話を記したノンフィクション作品。今にまで至る同人誌文化の隆盛を知る上で必読の書。朝日新書より電子書籍版が入手可能。

[7] 迷宮 : ’70年代前半に結成された漫画評論・研究のグループ。'75年には「迷宮'75」としてコミックマーケットを企画し、漫画ファンによる自主的な批評・交流活動の中心となった。

[8] COM : 手塚治虫が創刊した、虫プロ商事発行の漫画雑誌(1967-1973)。読者投稿コーナー「ぐら・こん」では全国の同人作家の交流が行われた。

[9] 亜庭じゅん : 漫画評論家。コミックマーケット創設者の一人。2011年逝去。

[10] キャプテン・ハーロック : 松本零士原作のSF作品。漫画版は秋田書店の「プレイコミック」に連載。1978年には東映動画制作によるテレビアニメ版が放送され、全42話。チーフディレクターはりんたろう。

[11] 米澤嘉博 : 漫画評論家、コミックマーケット準備会第二代代表。OUTでは『簡単漫画時評』『病気の人のための漫画考現学』を連載した('80年12月号から’82年2月号)。2006年逝去。

[12] アニメージュ : 徳間書店から発刊されたアニメ専門誌。'78年7月号(創刊号)の表紙は『宇宙戦艦ヤマト』。

[13] 月刊アニメーション : すばる書房、のちにブロンズ社から発行されたアニメーション雑誌。’78年11月創刊。

[14] FILM1/24 : ’71年より発行されたアニドウの会報。アニドウは'67年に東映動画(現東映アニメーション)・虫プロ・東京ムービー(現トムスエンターテイメント)・スタジオゼロ・TCJ(現エイケン)・Aプロダクション(現シンエイ動画)などに働くプロのアニメーター達によって設立された組織。

[15] ジ・アニメ : 近代映画社から発行されたアニメーション雑誌。'79年11月に創刊。

[16] 2ちゃんねる : 1999年に西村博之によって開設されたインターネット上の巨大電子掲示板サイト。2017年に「5ちゃんねる」に改名。「『ハッキング』から『今晩のおかず』まで」のフレーズの通り幅広い話題が投稿された。後には匿名掲示板の成り行きとして攻撃的・冷笑的な言説が蔓延することとなった。

[17] 朝日ジャーナル : 朝日新聞社が発行した週刊総合雑誌。'59年創刊。政治・社会・文化など幅広い分野を報道・評論した。'60年代後半には「右手に朝日ジャーナル、左手に少年マガジン」と言われるほど若者文化を象徴する雑誌となり、全共闘の学生たちが思想や運動について意見を交わす言論空間の一つともなった。'92年に休刊。

[18] 宇宙戦艦ヤマト : ’74年から'75年にかけて放送されたテレビアニメ。西崎義展が企画・プロデュースし、松本零士らが作品制作に参加した。放射能汚染された地球を救うため、宇宙戦艦ヤマトがイスカンダルを目指す物語で、日本のSFアニメブームを代表する作品となった。

[19] 南田操 : アニメ評論家。OUTでは'81年6月号から'85年5月号まで『南田操のアニメブレイク』、'85年3月号から'88年4月号まで『南田操のアニメDJ』を連載。

[20] 森卓也 : 映画評論家・アニメーション研究者。1933年愛知県生まれ。'60年代から映画やアニメーションについて評論を執筆し、『アニメーション入門』『アニメーションのギャグ世界』などの著書がある。

[21] 小黒祐一郎 : アニメーション評論家・編集者・脚本家。'64年生まれ。アニメ雑誌の編集・執筆などを経て、アニメーションに関する評論・インタビューを多数手掛けた。『アニメスタイル』編集長としても知られる。

[22] 池田憲章 : 特撮研究家・映像評論家。'55年生まれ。アニメ・特撮に関する評論や編集を手掛け、『アニメージュ』などで活躍。2022年逝去。

[23] 氷川竜介 : アニメーション・特撮研究家。'58年生まれ。日本のアニメーションや特撮について評論・研究を行う。著書多数。

[24] RII : 月刊OUT編集部員。アニメ記事や投稿コーナー『投稿時代』『ファンサイクロペディア』などを担当した。詳しくは当サイトの榎野彦さんインタビューをご覧ください。

[25] 鏡の国のアニメーション : 霜月たかなか名義で連載したアニメ評論。'82年12月号から'86年4月号まで。霜月たかなか名義の連載には他にも『アニメキャラクターの系譜』『アニメキャラクターWHO'S WHO』がある。


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