月刊OUTって、何だったのかな? 月刊OUTって、何だったのかな?

かつて「月刊OUT」というアニメ/サブカル誌がありました。
元読者3人からなる「月刊OUT勝手連」が、当時の編集部員やライターなど、雑誌にかかわった方たちへのインタビューを通して、18年にわたる雑誌の歴史を振り返ります。
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インタビュー:大徳哲雄さん(その1)
大徳哲雄さんは'80年代始めから半ばまでの月刊OUTの名物編集長です。この時代の過激なパロディや読者投稿ページを始めとした数々の記事によって月刊OUTのイメージは形作られたと言ってよいでしょう。今回のインタビューでは5時間にわたってお話を聞かせていただきました。
略歴
東京都出身。1978年にみのり書房入社。1980年より1987年まで月刊OUT編集長。誌上での名前は「T」。1989年に編集プロダクション「樹想社」を設立。2023年より同社取締役会長。江戸川大学マス・コミュニケーション学科客員教授(2007年~2012年)。立教大学文学部 文芸・思想専修非常勤講師(2012年~2018年)。

(聞き手:OUT勝手連 SII/WH/KN、 イラスト:木野聖子)

インタビュー:2024年11月23日
公開日:2024年12月28日


実はテーマを大きく2つ考えてきたんですね。で、今回は…今回はというのは、もしできればもう何回かお付き合いいただけないかなと。

いや、そうじゃないと無理だと思ったよ、2、3時間じゃ。

そう、そうなんです。それで今回の大きなテーマは、OUTの硬派な部分についてお聞きしたいんです。もうひとつのテーマというのは、「過激に面白い」というキーワードで、例えばアニパロとかいろんな過激な記事があったと思うんですが、それは次回にとっておいて。今回は当時のそういった雑誌の中でも、より硬派な部分にフォーカスしてお聞きしたいなと思っております。

はい。そこは一番大変なところです。その部分はほとんど喋ってないので。今までそのへんに関しては、話しちゃいけないと思ってたからね。だから、もしかしたら初めて言うことばっかりかもしれない。

自分の中でもこれは1回でまとまらないだろうなと思ってて。整理しててどうしようかなと思ったのは、話したら面白いだろうなというのが、OUTという雑誌の客観的な観点から見た部分と、人間ドラマっていうか、会社と編集者とかさ、編集者同士とか編集者とライター・漫画家とかそういう部分と大きくふたつあるんですよ。ただOUTに関しては、客観的なところも最初に入ってこざるを得ないから、そこから始まって突っ込んでいく、という方がわかりやすいかなとは思いますね。

中高生時代
「革命を起こすことを
幻想として抱いていた世代」

それでそのテーマに入る前にですね、すでに大徳さんはOUTの5周年特集とか10周年特集でご自分の経歴を書かれていますが、そこにあまり書かれてなかったのが、中高生・大学生の頃に大徳さん自身が一体どういう人だったのかということなんです。

そこはいちばん喋りたくなかったんです。ぜんぜん喋ってなかったんですよ。

そうなんですか。月刊OUT的なものを面白がるように至った人がどういう風に出来上がったんだろう、というのが全然わからなかったんです。

わからないですよね。喋ってないもん。書いてもないし。

そこを、もし差し支えなければお聞かせいただけないでしょうか。

僕らの世代は、もう本当に全共闘世代[1]で…いわゆる反体制活動みたいなね。

60年安保・70年安保[2]ってのがあって、年齢的には僕は完全にどっぷりその世代なんですよ。僕は1954年・昭和29年生まれで、そういう全共闘世代のほんとにお尻の世代なんだけども、たまたま東京・池袋の大学付属中学校に行ったというのもあって、その隣で大学紛争をもうバンバンやってて、ものすごく影響を受けて、中学生の頃からデモ活動とか政治運動みたいなものをやってました。

それで同じ中学校の一緒に闘争やってた友達が、デモって警察に逮捕されちゃったんですよ。中学生で逮捕されたので、新聞に載っちゃいましてね。僕はその時にデモには一緒に行ってなかったので捕まらなかったんだけど、結局そいつが退学せざるを得ないようなことになって、僕もそいつと一緒に活動やってたので、親と一緒に学校に呼ばれて散々絞られて、これ以上暴れるとやめてもらうことになりますよ、と。中学生なのに、大衆団交だとかって言って教頭先生を教室に閉じ込めたりとか、いろんなことやってたんですよ。

当然まだ中学生ですから深い思想的な理解はしてなかったけども、要するに完全にコミュニズムとかマルクス主義というものにどっぷりはまってですね、ほんとに今から思えば愚かだったなと思いますけども、革命みたいなものを起こそうということを幻想として抱いていた世代です。

ただ、ちょうど中学校の後半から高校に入るぐらいの年代で、連合赤軍の事件[3]とかね、日本の学生運動の…革マル[4]とか中核[4]とかいろいろあって、そういうラジカルな人たちのちょっと悲惨な事件とかを見聞きして。

それから世界の状況として、ソ連の共産主義国家がどういうふうになったのか。特にソルジェニーツィン[5]っていう作家が、いわゆるスターリニズムというスターリンの独裁政権下のソ連邦の実態をいろんな文学作品で書くようになって、ソ連とか世界の共産主義活動がどういうものだったのかということが明らかになった。それで非常に絶望してしまって、高校に入った時点ではもうほぼ活動から離れていて、高校2年ぐらいの時には完全にその活動から外れちゃった人間なんですね。

自分が10代の本当に若い時にどっぷり染まってはまった思想みたいなものが、全否定ってわけではないけども、現実の前に否定をされてですね、高校の後半以降からはすごくさまよってしまったっていうところがありますね。

もちろんマルクス主義[6]とかコミュニズムの後の思想がどうなったかということにも興味があったけども、今まで自分が理想としていたものがぶっ壊れちゃったわけだから、非常にさまよいましたよ。だからキリスト教とか宗教とかっていう方向にも行ったし。

大学時代
「大学は学問をやる場では
なかった」

それで大学でどこの学部に行こうかなと思った時に、僕は鋳物工場…鉄工所みたいな工場の跡取り息子として生まれてきたので、そのまま大学の経済とか法学部に入っちゃったら、後を継がされるだろうなと。親族で経営してたものだから、すごく僕に後を継いでくれっていうプレッシャーがかかってたんですよ。親父を手伝ってあげてくれないかということで、親戚の人からずいぶん継ぐよう頼まれたりとかしてね。

だけど結局、僕の親父は社長やってましたから、要するに資本家階級なわけですよ。今まで自分が否定していた存在に自分がなるっていうことにもすごく抵抗があったし、やってる業種自体それほど未来があるとは思えなかった。今はすごく大切な仕事だって思ってますけど。

当然僕が予想した通り、親父がやってた仕事の鉄工業とか鋳物産業は高度成長の時にはすごく良かったんだけど、その後どんどん下降線をたどるような産業になっちゃったので、ある意味では継がなくてよかったなっていう気持ちはある。今は逆に僕は親父の会社のお手伝いを多少してるんですよ。鉄工業っていうのはその社会の基礎産業なんですよね。だけど世界情勢とか経済的な状況で、基礎産業である割には、けっこう苦しい業種なのと、事業承継とかそういう問題もいろいろあって、その会社の取締役も今は少し受けてやってるんです。

で、大学入った時は、それこそ立教大学ですからね。立教大学は、僕が大学に入った頃が学生運動が一番盛んだったんです。明治とかね、法政とか東大とかに比べると、ちょっと遅い学生運動の高まりだったんだけども、大学の時は、僕はもう全く活動からも離れちゃったんですよね。ただ大学自体が大学紛争というものに巻き込まれちゃっていて、僕が1・2年生の時には、半分ぐらいしか授業がないっていう状況で、大学に行ってもほとんど勉強できないんです。大学で授業が始まると活動家の人たちが教室に入ってきて、「今こんな状況でこんな授業やってる場合じゃないだろう」と言ってですね、授業があっても半分討論会だったりしたんです。
僕はフランス文学科に入りましたけど、あの当時、思想的には実存主義[7]っていうのが流行していて、その後にフランスの構造主義[8]というのが、マルクス主義・実存主義の後に出てくるんです。僕は高校の時から、民俗学というものにすごく興味があったんですよ。日本の文化の起源・日本の起源とか、日本語というものの起源とか、それから日本というものが何なのかってことにすごく興味があって、それを民俗学が日本独自の形で拾い上げて学問化してたんですよね。それを世界のアカデミズムの文脈の中でやったのが、フランスの構造主義…文化人類学っていま言われてますけども、構造主義のクロード・レヴィ=ストロース[9]という学者さんがいて、その人にすごく魅力を感じて、構造主義を勉強したいなって(仏文科に)入った。

ところがもう大学は全然そんなところじゃなくって、大学解体・アカデミズム粉砕、大学なんて象牙の塔で壊すべき・解体すべき存在であって、学問をまともにやるような場ではないみたいな、そういうところのど真ん中に入っちゃった。だから大学を卒業してどこかに就職するっていった時に、さっきも言ったように資本家にもなりたくないし、サラリーマンにもなりたくないし、本当は大学に残って勉強したいっていうのもあったんだけども結局何もしないで、フラフラしてたんですよ。

それで、1年留年したあとに卒業したけども、食ってかなきゃいけないんで、何しようかなっていった時に、たまたま新聞広告でみのり書房の社員募集に応募して、受かったっていうほどの試験があったわけじゃないんだけども、それで入ったっていうのが実情なんですね。

だから思想的には、真っ赤っかです。いわゆる左翼と言われてるような主張の。それで10代後半から20代あたまぐらいまでは生きてきちゃった世代なので。もちろん今はもう共産主義革命おこそうとかね、そんなこと思ってないし、あの当時自分が考えてたことはかなり間違ってたなと思いますけども。

ただ根っこにはそういうところはものすごく残っているので、かっこつけて言っちゃえば、OUTの編集をやるときには、その10代の後半から20代の前半にかけての思想みたいなものはとても影響があったと思います。

でもそれの反省というものもあって。コミュニズム・共産主義って、要するにインテリゲンチャ[10]みたいなものが、前衛という形で民衆を引っ張っていって革命をもたらすんだっていう…なんていうのかな、アカデミズムとかそういうものがさ、民衆よりも上の立場になって指導していくんだ、引っ張っていくんだっていう考え方があったんですよ。

僕はそれは間違っていたなと思っていて、自分がOUTの編集をやる時に、自分のそういう思想のために、雑誌をこういう方向性に持っていくとか、読者をこういう考え方に持っていくっていうようなことをなるべく言いたくなかったし、やりたくなかった。だからそのことを自分としてはほとんど言わないっていう形でやってきたっていうのが正直なところですね。

だから、ものすごく恥ずかしいけども、コミュニズムです。コミュニスト。うん、笑っちゃうんだけど。

いや、笑わないです。当時のアニメーターとかもそういう人がいっぱいいたでしょう?

特にアニメの制作の方たちとかね、そういう人たちには、僕らと同じ世代、あるいはちょっと上の世代の人たちが当然いっぱいいたわけで、それはもう時代の流れとしてはしょうがなかったなというところはあります。

ただ基本的に変わらない部分っていうものもあって。コミュニズムが目指しているのは社会革命とか世界を共産主義化しようということもあったんだけど、それは間違っていたけれども。そうではなくて、最終的には人間の解放というものを僕らも目指さなきゃいけないんだよ、と。

文化的にも社会的にも経済的にもいろんな意味で人間の解放を目指す、というのは、未だに基本としてはすごく残っていて、みのり書房やOUTの編集者やってる時も、基本的にはその気持ちはずらさないでやっていこう、ということはすごくありましたね。

だから思想的に一番影響受けたのは、さっき言ったマルクスで、日本で言うともう本当に当たり前なんだけど、吉本隆明[11]とかさ、そういう人たちですよ。あとさっきのクロード・レヴィ=ストロースっていう構造主義の考え方の思想家、その人たちの影響がものすごく大きいです。一時、キリスト教の現代神学とかね、そういうものにものすごくはまったりなんかもして、転向しようかなみたいなことを思ったこともあるけども、結局いまとなってみれば、踏みとどまって、宗教の世界とかに行かなくてよかったなって思いますね。

そっちに行っちゃった人も、やっぱりいたんでしょうか?

あんまりいなかったけども、やっぱり宗教的なところに行っちゃう人はいました。

一つの行き先として。

やっぱりさ、人間ってどうしても、理想を求めたり自分がどう生きたらいいのかという時に、ある種、指針が欲しいわけじゃないですか。そこで今まで自分が指針だったものが壊れちゃった時に、何かに頼ろうとする気持ちがどこかに出てくるんだよね。今から思えばそれもちょっと間違いだったなと僕は思ってますけどね。

唯物論[12]からそっちに行っちゃうというね。

そうです。そういう人はやっぱりいた。僕は今はもうぜんぜん唯物論者ではありません。ただ、マルクス主義には基本的に唯物論っていうものはあるので、全否定はしてないです。唯物論というか、科学ね、サイエンスというもので、基本的には人間社会とか経済とか文化を捉えなきゃいけない。宗教的な形で飛躍しちゃうのはやっぱり問題なんだって今でも思ってる。唯物論者ではないし、サイエンス信仰主義・科学絶対主義者ではないけれども…。信仰はないし、科学で全てが解決できるとは思っていません…けれども、あらゆるものを捉えるときに基本的には科学を基礎にするという考え方は、今でも変わってないですね。そこを長く喋っちゃうと次に進まなくなって、こんなところで止めといた方がいいかなと思うんだけどさ。

当時の文化とその影響
「だからまあ、不良なんですよ。精神的不良。」

当時、例えば全共闘で安田講堂に立てこもった[13]人たちは、『少年マガジン』を読んで『朝日ジャーナル』を読んで、それは反体制でもあったけど、そこはやっぱり面白かったのだろうと。

そりゃそうですよ。だって完全に僕らは漫画世代です。

大徳さんは中高生でどっぷりはまっていた頃、思想的なことをすごく真面目に考えていらしたと思うんですが、でも中高生らしく面白いバカ話をしていたこともあったんじゃないでしょうか。

あったけど、漫画からは卒業しちゃったんですよ。『あしたのジョー』とか『少年マガジン』ぐらいは多少は目を通してたけども、漫画離れ・アニメ離れみたいなものはしちゃったわけ。自分は漫画世代なので、手塚治虫の『鉄腕アトム』とか『鉄人28号』とか、ああいう漫画で育った。ちょうど物心ついた時に、漫画が文化として定着したとは言わないけど、子供たちにすごく読まれるようになって、僕ももう真っ先にその読者でした。だから『少年』という雑誌から始まって、『週刊少年マガジン』『少年サンデー』という時代の初期に自分の子供時代は重なります。

中高校生時代はそういう少年漫画からは離れちゃったけど、『ガロ』[14]とか『COM』[14]っていう雑誌があって、そっちの読者ではあったんですよ。

やっぱり若者文化としての漫画だと。

そうですね。例えば『あしたのジョー』とかものすごくメジャーになったものはやっぱり気になるので、追っかけてはいましたけど。

東大の安田講堂の時にはもうテレビの観客です、自分は。特に連合赤軍の時なんか、完全に僕は離れちゃってましたから、やっぱりこれだけこういう風になっちゃったんだなと、これはもう本当に考え直さなきゃいかんなと思って。それから、そういうことを口にするのも憚られるような世の中になっちゃったんですよ。

「自分はむかし学生運動で結構バリバリやってたぜ」ということをかっこつけて言う人はいっぱいいる。でもそういうことを言う人はね、大概たいしたことやってないんですよね。

そうですよね。そうだと思います。

だから、罪の意識というか、間違っていた、本当に申し訳なかったって気持ちがあったら、そう簡単には言えないじゃないですか。それがどういうふうに間違って、どうあるべきか、ということを組み立てることが、まだできていなかったので、そういうことはあんまり口にしないようにって思っていました。だから大学卒業して食っていかなきゃいけないって時に、どうしようかってすごく迷って、じゃあ出版社でも入ろうかと思って、新聞広告で見て出版社もいくつも受けたけど、全部おっこったんですよ。

出版っていうのは、文学部出身の学生なんかにとって花形の職種だからさ。やっぱりすごい人気があって軒並み落ちてしまったし、みのり書房に拾ってもらったというのは事実ではあります。

そういう当時の学生運動の終わりに、本当にかなり年少でそうだったっていうことなんですね。伺っていてびっくりしました。大学で学生運動というのが一般的なイメージとして、中学の時代にすでにやってたのは早いですよ。

それは生意気だったっていうのもあるし、たまたま立教中学だったので、校舎の隣が大学なんだ、立教大学。僕が中学生の時に活動がいちばん華やか…華やかって言い方はおかしいんだけど、盛んだった時なので、なんで騒いでるんだろう、どういう考えでああいうことやってるんだろうっていう好奇心もすごくあった。ちょうど戦後のポップカルチャー、カウンターカルチャーとかさ、いわゆるサブカルって言われているようなものがちょうど台頭してきた時なんですよ。だから僕はロックとかにもすごく興味を持って、バンドやったりということと、学生運動というのはある種同義だった。

ビートルズとかさ、ああいうポピュラーミュージックとかロックというものも出てきたし。さっき言ったカウンターカルチャー・ヒッピー文化みたいなものがばーっと盛り上がってきたし、いわゆる反体制、いまでいうオルタナ、あれの出始め・戦後の台頭期にちょうどぶち当たっちゃったんだ。自分が10代の前半の好奇心が一番旺盛な時にそういうものに触れたので、染まっちゃったんです。

フォークとかフラワームーブメント[16]とか、あっちには行かなかったんですか。

フォークとかフラワームーブメントは、馬鹿にしてましたから。つまり僕はどっちかというとラジカル・過激だったんですよ。だから、ビートルズなんかよりローリング・ストーンズ、ローリング・ストーンズよりもクリーム[17]とかさ。その後、ハードロックとかもっとラジカルなものが出てくるじゃないですか。そういうものの方に自分が惹かれていたわけ。

それとノンセクト・ラジカルという考え方[18]にすごく憧れたんだ。だから僕は別に革マルにも中核にも、そういうグループには(属さなかった)…ただ、デモはさ、例えばあるグループが主導してるんで、そこに行かなきゃいけないんだけども。要するに一匹狼ですよ。ノンセクト・ラジカルで活動していくってことにかっこよさを感じてたわけ。大きな間違いだったんですけど。

だけどそのノンセクト・ラジカルの基本的な考え方というものは、例えば時間が経って自分がOUTをやってから…僕は今まで見たテレビアニメーションでいちばん影響を受けてるのは、『装甲騎兵ボトムズ』[19]っていう作品で。要するにあの主人公の生き方っていうのは、まさに戦争によって生み出されたパーフェクトソルジャーだからさ。それが戦士として育てられているのに、戦争からいかに離脱していくかって過程を、子供向けのロボットアニメで描いてるわけよ。びっくりこいたわけ。

その前にもちろんガンダムとかね、あるんだけども。それは自分がOUTやってて間違ってなかったなって思ったことのひとつで、まさにアニメの製作者たち・同じ世代だった人たちが、いろんな表現をしていたのと重なるんだ。

ただ僕は体が弱かったので、病気をしちゃって中学2年から1年ぐらい学校に行けなかったんですよ。そんなこんなもあって闘争から離れたというのもあったし、ロックもやらなくなったし、バンドやった時も学生運動やった時も、怒られて、懲らしめる意味で奉仕活動のグループに入れさせられたりとかさ。恥ずかしいんだけどさ。

だからまあ、不良なんですよ。ヤンキー的な意味での不良とかではなくて、思想的とまでは言わないけど、精神的不良。それがすごくOUTにさ、馴染むわけ。わかるよね。

とてもわかります。

みのり書房に入社
「入社してすぐに大損害を会社に与えたんです」

それで大学卒業してみのりに入って、やることは何かっていったら、みのりも変な会社でさ、「うちの会社は、会社に入って3ヶ月経ったら、本を1冊やらなきゃいけないんだ」って言うわけ。だって3ヶ月だよ。「えっ?」て話になって。

それは無理だったんで、最初は官能劇画っていう…あの当時、いわゆるエロ劇画ブームってのもあったんですよ。その『官能劇画』っていう雑誌がみのり書房にあって、僕はその編集部に配属された。それで官能劇画の編集をやってたんだけども、3ヶ月で本作らなきゃいけないって…要するに官能劇画の編集だけじゃなくて何か新しいものをやれって言うから、でもやれることって漫画ぐらいしかないんですよね。それで官能劇画の編集をやりながら『Peke』[20]という漫画雑誌を創刊するということになって。

それで入社して1年目に『Peke』が立ち上がった。『Peke』も月刊誌だったんだよね。6号で終わっちゃったんだけど、その創刊に編集者として関わる。実質的には編集長ですけども、編集長っていう形では名前は入ってないけどね、それをやったんですよ。

『官能劇画』時代とか『Peke』の話も面白い話がいっぱいあるんだけど、それを話すと長いからかいつまんで言うと、とにかくね、『官能劇画』はものすごく面白かった。今はもうハラスメント、あるいはいわゆるジェンダー的な差別というものの問題で、日本のロマンポルノとかエロ劇画というのは、差別そのものでしかないじゃないかって糾弾されてるんだけど、昔は違うんですよ。あれがラジカルだった。

エロの表現というものを漫画でやったり、映画でやったり、表現の世界でやっていくってことがラジカルだっていう考え方もあって、すごく僕としては面白かったんです。大学の時に、マルクス主義者であったりキリスト教の現代神学なんかもやっててさ、いきなりそういう全く180度違う世界に入ったから、面食らってはいたけども、すごく面白かった。で、その面白さのノリっていうのがあって、それで、雑誌やれって言われたから。

ちょうどその時代の漫画、例えば『ガロ』っていう雑誌もさ、あんまり新しい作家を多く打ち出せなくなっちゃった。『COM』も休刊するような形になったので、要するに商業漫画誌と非商業漫画誌ってものの間がすごく空いてたわけ。もちろんコミックマーケットでは同人誌みたいな活動があって、同人誌と商業漫画誌の二つしかなくなったんです。だからもし狙うんだとしたらそこだろうなと思って『Peke』っていう雑誌を創刊したんですよ。だけどもね、そんな甘くはないです。大損こいたんですよ。

会社に入って1年目にして雑誌を創刊して、その次に大損害を会社に与えてるわけ。これは結構しんどかったですね。だって月刊って毎月出さなきゃいけないんだ。毎月出すごとに赤字でしょ。赤字が雪だるまになってくるわけですよ。もうにっちもさっちも行かなくなっちゃって、責任取って会社辞めようと思って辞表持っていったんですよ。

そしていろいろあって、引き止められたんだよ。それで「わかりました、じゃあもうちょっとやります」って言ったけど、会社の中ではさ、あいつはもう会社に大損害与えて、全然ダメ編集者・ダメ社員なんです。ダメ社員として恥を忍んで会社に残んなきゃいけないわけですから。

ちょうどその時にOUTっていう雑誌がすでに何号か出てて、ところが売れたり売れなかったりで、編集者が辞めちゃったりっていうこともあって、「人手が足りないからお前やってみないか」ということで配属されたのが、OUT編集部に入ってきた理由です。

それで、これはもうどんな恥を忍んでも会社に残って、商売としてなんとか雑誌を軌道に乗せなきゃいけない、OUTを黒字に持ってかなきゃいけないということが、僕の中で第一命題になったんです。昔の活動をしてた頃の、資本主義がどうこうとかそういうことはとりあえず置いといて、じゃないけどさ、それよりもとにかくこの資本主義の世の中で自分が勝ち抜いて生き残っていくためには何をしなきゃいけないのかということを考えて、雑誌がどういう風に売れるか、それを第一主眼に置いて仕事していこう、生きていこうというのが、OUTの編集部に入ってやろうとしたことのひとつですね。

('78年6月号を手に)これがその頃の号[21]だと思うんですが、多分このあたりから編集後記にTさんの名前が…

出てますしね。要するにOUTは最初はサブカルマガジンだったんだけど、何かわけのわからないカオスなものなんですよ。何の本だかよくわからないんですよ、初期の特集見てみるとさ。今から言えば、訳のわからないサブカルマガジンで括ることはできるんだけど。

第2号でヤマトの特集をやって、それはすごく売れたらしいんですよね[22]。僕はまだそのころ編集部にいませんけども。で、ヤマト以外の特集に戻ったら売れなくなって、超人ロックの特集[23]やったら売れて、みたいな。それで、漫画とかアニメーションとかそういうものを中心に取り上げると調子がいい、本が売れるってことは、ある程度ぼんやりとしたものは見えたわけで。

実は僕が編集部に入った時は、サブカルにもものすごく興味があったんですよ。初期の、ほんとに初期のOUT的な部分に興味があったんだけど、それを引っ張ってってやっちゃったらその本が売れないだろうなってのは分かったから、漫画とかアニメーションに雑誌を特化してくって形で。

あと読者投稿というものが…『fromお茶の水』[24]というコーナーがあってすごく受けてたんですよ。すでにもう『ビックリハウス』[25]みたいな雑誌も成立してたしね。まだインターネットは出てきませんけども、いわゆるジャーナリズムのあり方として、例えば雑誌とか書籍っていうのは、知識人とか識者・学者さんとか、偉い人が作るものだというのがあったわけじゃないですか。ところがそうじゃなくて、戦後になって、大衆の…大衆とか民衆って言い方はあんまり好きじゃないんだけど、読者のレベルがすごく上がってきたんですよ。そういう声が出てきていたので、それを取り上げるということはひとつの手だろうなって思ったわけよね。それがOUTの中にはありましたから、それは無くしちゃいけない。絶対これは削っちゃいけない部分だと。

ただ漫画・アニメ以外のサブカル部分に関しては、申し訳ないけどあんまり取り上げない方向性で行きましょうと。あと、漫才ブームをきっかけにしてお笑いブームっていうのが起こったんです。だからOUTの中には最初から、おちゃらけ精神とかパロディ精神みたいなものもすごくあったわけ。第2号の宇宙戦艦ヤマトの特集の中でパロディ的なものとか森雪のヌードを載せて[26]、すごくそれが話題になったりしていてね。

そういうサブカルの中でもマンガ・アニメーションというものと、読者投稿というものと、お笑い的な部分を、その雑誌の柱としてやっていこうって、僕はずっと編集会議のたびにそれで行きましょう行きましょうって言ってやってたんですよ。その方針は僕が編集長になってからもあるていど堅持してるんです。ただそうではない編集者もいたわけで、そこの部分で揉めたりなんかもしていました。

その頃の編集長は間瀬さん[27]ですか。それと、その後は南原さん[28]。その方たちは、あんまりそういう方向性は持ってなかったのでしょうか。

あのね、(間瀬さんは)どっちかというとサブカルの方に強い指向性がある人だったんです。だから初期OUTの方向性に戻したいっていう考え方が間瀬さんの中にもあった。でもアニメーションがすごく好きだとか、そういう人ではなかったんですよ。

南原さんも、どっちかというとサブカルの方向性の人だった。南原さんは(編集長をやめて)しばらくして『アラン』っていう美少年・少年愛の雑誌、今で言ういわゆるBLの走りみたいな雑誌を立ち上げて、その後やっていったんです。あと南原さんは、ヤマトとガンダムとふたつあって、どっちかっていうとヤマト派なわけよ。

ガンダムの放映が始まったのは南原さんが編集長の時で、僕らも編集部で第一話を見たんだけども、僕はびっくりこいたわけですよ。こんなすごいアニメーションが出てきたんだと。これはもうね、第一話を見た時から確信だったんだよね。ロボットアニメとしてまさに子供向けで始まったんだけど、子供には最初は理解されて受けないかもしれない、視聴率は取れないかもしれないけど、いずれは必ず来るだろう。ヤマトの次に来るのはガンダムだってことはすごくよくわかったから、とにかくガンダムを載っけよう、載っけようって僕はやってたんです。

月刊OUT編集長に
「当時のOUTって同人誌だった。
同人誌じゃ絶対に限界がある」

南原さんが辞めて、じゃあ編集長を誰にするんだってなった時、Cさん[29]の方がOUTのキャリアは長かったんだけど、彼もみのり書房に入る前に違う編集部にいてそこから来たっていう経過があったりして、とにかく僕にやれっていうわけですよ。ただCさんの方がキャリアが長いから、じゃあCさんを副編集長にしてくれ、それだったらやると。

それともう一つ。その当時のOUTって、要するに同人誌だったんですね。つまり、手作り。原稿からデザインからイラストから写真から、編集者としての実務、何から何から全部編集者がやるっていう。プロに…デザイナーにデザインを頼んで、イラストレーターにイラストを頼んで、漫画家に漫画家を頼んでっていうように、専門家に頼まないで自分たちでやっちゃうから、安上がりでやれてるってところがあったから。

でも同人誌じゃ絶対に限界があると。だから、編集長になってもいいけど、デザイン費とか原稿料とかそういうものを含めて3倍にしてくれって言ったの。なんでかというと、3倍にしてくれって言ったら会社は絶対飲まないだろう、でも増やしてくれるだろうと思ったんだ。それでさんざんやり取りして、じゃ、2倍に増やしてあげるよって言われたの。

それで、じゃあデザインはデザイナーに、原稿はプロの人に頼むっていう流れを作って、やり始めた。それでガンダムってものも出てきて、ガンダム以降も結構いい作品、ラジカルな傑作がいっぱい出てきたので、その波に乗れっていうのがあるから。そしたらOUTの部数が急激にグーンと上がっていった。ガンダムが'79年だから、1980年ぐらいから、ガーって人気が上がり始めたんですよね。そういう意味で言えば、それで黄金期みたいなものを迎えるんです。

('80年9月号を手に取って)これが編集長になられたときの号[30]ですね。

そう、まだ表紙にヤマトが載ってますね。

ガンダムも載り始めていますね。

そうだね、だから、ヤマト派とガンダム派がせめぎあっている、象徴みたいな表紙ですね(笑)。

部数ってこの前後でどのぐらいだったんでしょうか。

僕が編集者やってた頃はね、1万部行くか行かないかぐらいですね。だから赤字ですよ。ヤマトの時だけ売れて、増刷して1万5000部ぐらいまでいった。それでも雑誌であの当時1万5000部はけっこういい結果だったんです。はっきりとした数字を覚えてないけど、そんなものですよ。それでガンダムが出始めて、ガーッて、部数3万とか5万ぐらい。

雑誌を見ていてちょうどこの前後ですぐに気付くのは、ページ数が増えているのと、文字が小さくなって、情報量がすごく多くなってるんですよね。

はい。それはさっき言ったアニメーションの情報と、読者投稿と、あとライターさんに頼むお笑いを中心にしたいろんな企画ページで、その三本柱をとにかく入れなきゃいけないわけじゃないですか。アニメ誌にするんだとしたら、アニメ情報で100パーセントは埋められないわけですよ。いっこ外しちゃうとOUTじゃなくなっちゃうってあったから、3つ残しながら増やしていく。

それでアニメーションはすごく脚光を浴びるようになった。だけどアニメの情報ってね、カラーページじゃないとあんまり効果がない。ご存じかもしれないけどカラーってものすごくお金がかかるんです。4色ですからインクの色だけでも4倍かかるわけであって、すごく予算がかかっちゃうんです。そうしたらページ数を増やすのがいちばんいいんですよ。

三本柱のそれぞれを充実させながらっていうことを考えると、ページ数を増やすのがいちばん合理的だろうなっていう考え方です。だからページ数が増えてます。ただ特集によっては売れなくてまた黒字から赤字に転落したりっていう、売れる部数にすごく波がありながらやってました。

それは、人気アニメを取り上げるとぼんと売れるけど、そうでない時はみんな買ってくれない。

買ってくれない。

で、『アニメージュ』というのが出てきたんです(1978年6月)。アニメーション雑誌って他にもね、『月刊アニメーション』[32]とか『ファントーシュ』[32]出ていましたけど。アニメ誌みたいなものは決してアニメージュが最初ではないんですよね。そこに本格的なアニメ専門誌が徳間から出たわけですよ。だからもうアニメ雑誌ってことだったら敵うわけないでしょ。資本力でも雑誌のボリュームでも敵わないんです。

だからアニメ情報ページに関しては、特集として取り上げるっていうことと、アニメージュ的な切り口ではない取り上げ方でOUTではアニメーションを取り上げよう、少ないスペースの中で工夫してやっていこうというのが編集方針になっていたところがあります。

そのあと続々と『ジ・アニメ』[33]が出て、『マイアニメ』[34]が出て、『アニメディア』[35]が出て、アニメ誌乱立の時代に入っていっちゃうんだけどね。あと『アニメック』[36]も出てきたし、当然OUTも、ただでさえ少ないページ数でどうやったら読者の目を惹きつけるかということを考えた時に、個性…要するに差別化を図って、OUTじゃなきゃできない特集というものをやっていくということに編集方針を変えていった。

そこで出てきたのがRII[37]で、それはちょっと後なんですけど、その話に関してはそういう流れですね。

→ その2につづく


[1] 全共闘世代:60年安保・70年安保闘争の時期に学生時代を送り、なんらかの形で学生運動にかかわった人の自称・他称だが、同時代に20代だった世代を総称していうこともある。活動の中心をなしていた「全学共闘会議」の略称からとっている。

[2] 60年安保・70年安保:日米新安全保障条約に反対する社会運動。

[3] 連合赤軍事件:極左組織である連合赤軍が起こした一連の事件。社会に大きな衝撃を与えた。

[4] 革マル・中核:どちらも新左翼や極左と分類される共産主義系の党派。

[5] アレクサンドル・ソルジェニーツィン:ロシアの作家。ソビエト連邦時代の強制収容所の実像を描いた『収容所群島』などで知られる。

[6] マルクス主義:経済学の基礎をなす思想でもあるが、ここでは共産主義の生みの親としての側面が語られている。

[7] 実存主義:人間の存在を中心におく哲学思想。

[8] 構造主義:現象から構造を抽出する、現代思想の方法論のひとつ。

[9] クロード・レヴィ=ストロース:社会人類学者・民族学者。構造主義の中心人物であり、日本でも著作が広く読まれた。

[10] インテリゲンチャ:いまは単に知的な人という意味で「インテリ」と略して用いられることが多いが、ここで語られている文脈では、社会的な階級という意味合いが強い。

[11] 吉本隆明:戦後の日本を代表する評論家のひとり。『共同幻想論』などで知られる。

[12] 唯物論:観念や心は物質的なものであるとする哲学思想。マルクス主義の唯物史観もその発展である。

[13] 安田講堂に立てこもる:全共闘の敗北を象徴する事件。余談だが、WHの昔の勤め先に、実際に安田講堂に立てこもっていた方がいた(余談なのでインタビューでは話さなかった)

[14] 月刊漫画ガロ:青林堂発行の漫画雑誌(1964-2002頃)。つげ義春など独自の作風の漫画家を多く掲載した。

[15] COM:手塚治虫が創刊した、虫プロ商事発行の漫画雑誌(1967-1973)。

[16] フラワームーブメント:1960年代後半、ベトナム戦争を背景にした平和的抗議活動やそれに影響を受けたヒッピー文化などの総称。平和と愛の象徴として花を飾っていたのが名称の由来。

[17] クリーム:エリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースによるロックバンド。当時としては桁違いに大音量の演奏で、戦闘的ブルース・ロックと呼ばれた。

[18] ノンセクト・ラジカル:大学闘争において、新左翼系の党派には属さずに活動した一群のこと。

[19] 装甲騎兵ボトムズ:日本サンライズ(現・サンライズ)制作のロボットアニメ。1983年4月1日〜1984年3月23日、テレビ東京系ほかで放送。全52話。https://ja.wikipedia.org/wiki/装甲騎兵ボトムズ

[20] 月刊Peke:みのり書房発行の漫画雑誌。1978年9月号から1979年2月号まで。吾妻ひでお・いしかわじゅん・ひおあきらなどの作品を掲載。

[21] '78年6月号、表紙は超人ロック。このあとTはPeke編集部に行き、再びOUT誌の編集後記に名前が出るのは'78年12月号。本人によれば「入社して直ぐはOUTの編集部に籍は置いていても、ほとんど何もしておらず、官能劇画の編集手伝いをしながらPekeの創刊準備と3号までの編集をしていた」とのこと。

[22] '77年6月号。伝説の『宇宙戦艦ヤマト』特集号。この号が爆発的な売れ行きを見せたところから日本の商業アニメ雑誌の歴史が始まった。

[23] '77年12月号。『超人ロック』の商業誌初連載はOUT増刊『ランデヴー』'77年12月号より。

[24] fromお茶の水:‘77年8月号から使われた、読者コーナーや編集部からのお知らせ・次号予告・編集後記などの総称。’78年12月号より『ミックスサンド』に替わる。

[25] ビックリハウス:パルコ出版から刊行された読者投稿を主体としたサブカルチャー雑誌('74-’85年)。

[26] 森雪のヌード:本文の1ページ目に、小さめのカットではあるがヤマトがワープする時の森雪のヌードのセル画イラストが載っていた。

[27] 間瀬肇:月刊OUT二代目編集長('77年12月号から'78年11月号まで)。

[28] 南原四郎:月刊OUT三代目編集長('79年4月号から'80年8月号まで)。後に『南原企画』を立ち上げ、『アラン』『月光』などの雑誌を編集した。

[29] C:月刊OUT編集部員、後に『アニパロコミックス』編集長。OUTでは投稿コーナー『ミックスサンド』などを担当した。

[30] '80年9月号。表紙はヤマト・イデオン・ガンダムと、松本零士の『マリンスノーの伝説』。

[31] 月刊アニメーション:すばる書房、のちにブロンズ社から発行されたアニメーション雑誌。’78年11月創刊。

[32] ファントーシュ:'75年10月に創刊された自費出版誌。日本最初のアニメーション専門誌とされる。

[33] ジ・アニメ:近代映画社から発行されたアニメーション雑誌。'79年11月に創刊。

[34] マイアニメ:秋田書店から発行されたアニメーション雑誌。'81年3月に創刊。

[35] アニメディア:学習研究社から発行されたアニメーション雑誌。'81年6月号に創刊。事業取得により2020年以降イードから発行される。

[36] アニメック:ラポートから発行されたアニメーション雑誌。’78年12月に『MANIFIC』として創刊、のちに『Animec』と改題。

[37] RII:月刊OUT編集部員。OUTではアニメ記事や投稿コーナー『投稿時代』『ファンサイクロペディア』などを担当した。