1962年生まれ。『東京中日スポーツ』、『まんがパロ野球ニュース』など多数の媒体で長年にわたり四コマ漫画家として活躍。著書に『完全「名古屋人」マニュアル』など。
ホームページ:「なかむら記念館 新館」
メールインタビュー:2024年9月
公開日:2024年12月28日
月刊OUTとの出会いについて、教えてください。最初に買ったのはいつの号だったか、また、そのとき年齢はおいくつだったかもさしつかえなければ教えていただけますでしょうか。
最初に手にしたのが1978年9月号。8マンが表紙で、映画『さらば宇宙戦艦ヤマト』特集が載っていた号です。
高校1年(16歳)の秋の体育祭で、班ごとにマスコット(アニメのキャラクターとかを模したセットを、数メートルほどの大きなサイズで作成)を作る際、どこかの班がヤマトの資料でOUTを持って来ていて、それが校庭に落ちたまんまになってたんです。
で、体育祭本番の日にそれを拾って読んだら、めちゃくちゃ面白くて、翌日すぐ書店へ行って購入。それが翌10月号の海賊版特集号でした。
月刊OUTの何が魅力的だったのでしょうか?また、気に入っていた特集・記事・コーナーなどありましたら教えてください。
自分が魅力に感じたのは、当時の雑然とした誌面構成。サブカルチャー的な知らない情報がそこかしこに載ってたところです。
それと、読者ページ『Fromお茶の水』[1]。
一番好きだったのがアンケート発表ページで、この当時(1978年)は質問に対する読者の回答が無記名列挙で[2]、紋切りで1~2行ずつ続く回答の並びのバランスが絶妙だったのでした。今でいうと、テレビのフリップ式大喜利にある、連続回答の爆笑の流れが近いかな。知らない人たちの軽いコメント群がただ並んでるだけなのに、それが絶妙の並びでジャブみたいに連打してきて、そのリズムに大笑いしちゃう。この構成をした当時の編集者さんはすごいなーと思いました。
自分には新しい笑いの世界でした。
それと同時進行で、アニメやマンガのパロディにも触れました。
あとは、雑誌の楽屋オチとか。この頃のOUTで覚えたかも。
投稿を始めるきっかけは何でしたか?
投稿はOUTを知る以前から既に趣味でしたが、最初に投稿が載った1979年1月号(ザ・コンテスト[3])の賞品が、前年みのり書房から出た『おはがきマガジン』[4]っていう増刊で、これが嬉しくて、その後も投稿を続けるきっかけにはなったかも。
中村さんの投稿は『ミックスサンド』[5]でのショートショートや、落語ネタなど、ひねりながらもその時代の王道の笑いのセンスにあふれた文章のネタが多かったように思います。当時のご自分のセンスに影響を与えたものはおありでしょうか。例えば他の雑誌やテレビ番組、ラジオ番組など、ありましたら教えてください。
センスの定義がよくわからんのですけど、ショートショートと落語は好きでした。深夜ラジオと同じ感覚で、選んでもらえそうなネタをただただ考えてました。
笑いは全ジャンル好きで、パロディの面白さもOUTで覚えましたんで、その後パロディ投稿を始めたのも自然の流れだと思います。
例えば「人気マンガの架空声優キャスト」なんて投稿が「Fromお茶の水」の頃からあって、ああいうのを読者がどんどん自発的に作って、それをみんなで真似て遊ぶ、みたいなノリは楽しくて好きでした。
編集者さんが遊び場を提供してくださってる感覚でした。
いま読むと、例えば『ミックスサンド』に掲載される投稿のレベルがどんどん高くなっていくように見えますが、当時、そういう印象はありましたでしょうか。(投稿雑誌としてどんどん盛り上がっていく、というような……)
んー。よくわかりませんが、上で書いた「真似て遊ぶノリ」的な意味ですか? 真似てくうちに発展してく、という。
ミックスサンドの頃は、単純に読者も増えていたと思いますし、パロディという遊びも浸透してましたんで、相対レベルは上がってたと思います。
ただ後期ははっきり読んでおらず、自分が読んでた時期と比較できません。
中村さんの’83年9月号の投稿で、コミケで記念写真を撮影しようという呼びかけ[6]があって、これが読者主体の集まりという意味では最初期のものだと思います。この時の様子についてお聞かせください。また中村さんの投稿にはあまりアニパロの傾向はなかったように思いますが、アニメ・漫画などについてのコミケでの同人誌活動はされていたのでしょうか。
まず自分の同人誌歴から申します。
高校時代にOUTのファンジンページがきっかけで某先生のFCに入会したのが最初。
1981年大学入学直後、同人誌創作サークル『NAC(ニューアートクリエイション)』に入会しました。このサークルに杉島邦久さんという、のちにサンライズで『ザブングル』や『イデオン』のスタッフをされた先輩が4年生におられました。
あと1学年上に、A氏(こちらは一般人なので名前隠します)という、『ファンロード』に同人誌即売会のコスチュームプレー写真を最初に投稿した第一期おたくの先輩がおられて、この方が中心で作った『SHAN(シャン)』というアニメ・マンガ批評系同人誌に参加して、東京他各地の同人誌即売会に同行しました。(批評というより、好き勝手な意見発表ですね)
ただ私の場合、OUTの「入り口」が文字投稿ページであり、アニメ(特にロボットアニメ)は周囲が見てたから見てたという感じです。その中で『ザブングル』だけは笑いの要素が多い内容だったため割とはまって、よその同人誌にパロディマンガを拙い画力で描いてました。その他、『ルパン』『うる星』などのマンガも、ヘタなりに。
読者の集会は『ファンロード』で当時既にやってた気がしますし、もっと言うと、1978年のOUTにも、お茶会の名目で集会の告知が読者欄に出ていた気がします。
未確認なので違ってたらご勘弁。[7]
OUTについての読者サークル『アウシタン倶楽部』、 また同人誌『やみナベ族』を主宰されていましたが、その活動について、きっかけ、内容、反響などをおきかせください。
(’84年4月号の『ファンジン紹介ちゃん』に「結成して1年半…」と書かれているので、結成は’82年秋くらいでしょうか?)
1981年(大学1年)の秋に自分でも同人誌が作りたくなって、OUT編集部に全面協力を賜って『別冊SHAN OUT特集』というのを作りました。
今では絶対ありえませんが、OUT編集部に伺って有名投稿者30余人の住所を教わり、アンケートを送付したり、岩崎摂・浪花愛ご両人にQ&Aを送ったり、投稿を誌面再録したり。今なら全部ムリですね。寛大なるOUT編集部さまさまでした。
で、味をしめて、翌1982年8月に続編『われらアウシタン』を発行しまして(編集部座談会や、前回アンケートのメンバーによる創作原稿、等々を掲載)、その巻末に「アウシタンクラブ(仮名)発足のお知らせ」を掲載したのが最初です。機関誌『やみナベ族』1号の発行は同年12月15日でした。
反響は……どうなんでしょう?
私は3年間で会長職を辞めて、別の会員さんに座を譲ったんですが、在任中OUTにまつわるマジ試験をやって一部会員さんから大反発されたり、別の一部会員さんからは名指しで全否定されたりしたので、成功ではなかった気がします。
まとめ役が周囲以上に「我」を出すとしくじる、ということは学びました。
会はその後、1985年末頃に霧散したようです。
読者サークルの活動の中で多くの読者と交流があったかと思いますが、当時(’80年から’85年前後)の読者像について、どういう印象を持っていらっしゃいますか?(のちにアウシタンのイメージをイラストにも描かれていますが[8])
アウシタンのイメージイラストは、確か須田留貧(三条陸)さんたちから項目をいただいて、それを絵にしただけじゃなかったかな。なので自分の意見は入ってないですね。
私にとっては、有名投稿者さんたちと同人誌で手紙のやりとりをしていた頃が最ものんきな記憶ですかねぇ…。
1985年以降はOUTを購入すらしてない時期があり、正直よくわかりません。
’86年9月号に、今度はライターとして月刊OUTに登場されますが、OUTで仕事をされるようになった経緯を教えてください。また、差し支えなければお仕事を始めたときの年齢も教えてください。
あ、1986年9月号からでしたか。
バックナンバーを処分してしまい、執筆者としてのOUTの履歴がまったく不明だったのです。ありがとうございます。
元々アニメにも特撮にも興味が薄く、投稿ページの面白さで購読してたのですが、上京した1985年以降は誌面の比重が完全にアニメになり、一時購読をやめました。仮に編集部に行っても、「この誌面では何もすることない」と思ってました。別に絵がうまい常連でなかったし。
そしたら翌年、当時の大徳編集長から「会おう」と電話がかかって来て、「なんでウチに来ないの?」と聞かれ、同じ答えをしたと思います。そこで大徳さんの方から「編集部を舞台にしたネタなら描けるでしょ?」というまさかのご提案を頂いて、編集部への出入りが決定しました。
1986年9月号ですと、24歳直前だったと思います。
読者からライターになって意外だったことなどはありましたか?
OUTの編集部は素人時代からの顔見知りばかりでしたから、気持ちが他の会社より圧倒的にラクでした。ただ、意外と思うより先に「仕事とはそういうもん」と受け入れていた気がします。
いっぺん離れた時期もあるくらいなので、アマとプロの「線引き」は内心してました。
’86年9月号からOUT編集部スタッフをキャラクターにした作品『湯島ウラ行進曲』[9]を 、また’87年10月号からは高校の新聞同好会を舞台にした『やにわに同好会』[10]を連載されます。これらの作品について、思い出を聞かせてください。また、漫画家としての活動のなかで、ご自身としてはどういう位置づけになっているのでしょうか。
『湯島ウラ行進曲』の開始当時の絵は、うまいヘタ以前に固まってなくて、お金をもらって勉強していた気分です。編集部のキャラと、4コママンガ家の「ネタ欲」がせめぎあっていて、お見苦しい限り。編集部キャラだから、ということで許されてたのでしょう。
そこへいくと『やにわに同好会』の頃は、すべてに余裕ができてたかも。主要キャラの2人はコサキンがモデルで、いまだに何かあるとキャラを使ってます。ただ、アニメとは全然関係なかったですし、読者的にはニーズが無かったでしょうね。
さきほどの質問とちょっと重なりますが、投稿者から投稿コーナーの担当者に立場が変わって、読者投稿という文化に対する印象に変化はありましたでしょうか。
『アウシタン倶楽部』の所で答えられなかったのでここで答えますが、学生時代の通算3年半、大勢の常連投稿者とやりとりをしましたので、選者サイドの心得はうっすら学べたし、会得できたと思ってます。
もっと言っちゃうと、投稿者の心理ですね。「この人の発想法はこうか」「こいつはこんなクセがある」みたいな。
これはまぁ、あくまで「わかった風」なんでしょうけど。
あとは、自分が初期OUTの『Fromお茶の水』の時に感じたような、「どれだけ投稿者が楽しめる遊び場が作れるか」を考えるようになった点でしょう。できたかどうかはさておき。
中村さんのカットはとぼけた味わいが特徴的だと思いますが、何か意識していたことはありましたか?(マンガを描くうえでの意識と重なる部分があるのではないかと思いますけれども)
いしいひさいち先生のフォルムを真似てた頃ですかね?まだミリペンを使う前、スプーンペンで硬筆な感じで描いてた頃ですね。
画力はアレですし、サイズが小さかったので、なるべくひとネタ入れて描くようにはしてたかもしれません。
’88年7月号あたりからスタジオHEGEと企画記事をされるようになりましたが、スタジオHEGE設立のいきさつを教えてください。
あれっ、マジで記憶があやふやだ…
最初『やにわに同好会』のハシラで、「コサキン[11]リスナー、お手紙ください」って告知をしたんでしたっけ?
で、お手紙をくださった方に「ライター集団を作ります、参加者募集!」って申込用紙なんか送った気がします。
(自信が無いので間違ってたらツッコんでください)
’87.10月号の「やにわに同好会」のハシラに
「『コサキン無理矢理100%』ファンの人、『OUTでコサキン特集を』運動を起こそう!!」
という告知があり、同12月号にはこの告知について
「お手紙くださった方には現在アフターケア企画中です!」
というメッセージが掲載されています。また’88年7月号の『なかむら治彦の名裏有寄新報 Vol.1』に、「協力:スタジオHEGE」とあるのが記事としては最初の記載のようです。
思い出しました。
私がマンガ以外の記事ページをやるにあたって、(肩書きじゃないけど)それらしい団体名を付けただけですね。なので、この時点では吉沢くんも林(キーオ)くんも誰もいません。
ユニットとしての始動は1988年秋だと思ってたけど、ハシラに「コサキン特集賛同者、10/1現在40余名」とありましたから、やっぱり始動はこの年の秋ですね。
4コマ以外のギャグをやるにはユニットだ!と思ってメンバーを集めましたが、最終的には大徳さんの編集プロダクションにお預けしてしまった形で、全員には大変申し訳なかったと反省してます。
『世直し団』[12]は完全ノータッチで、読者として楽しんでました。
あと、大徳さんは純粋に若い人の面倒見がおよろしいのかなと。私といい、メンバーを樹想社[13]で使ってくださった件といい、他の執筆陣も含めて。
そういえば、高校の友人が上京してアニメーターになって仕事が無かった時、カラーページの絵描きに使ってくださったこともありました。(書いてるうちに思い出しました)
もうお世話になりどおしです。
OUT休刊前でも休刊後でも、お仕事をされる中で、いわゆる「おたくカルチャー」の中にアウトの影響があるな、と感じたことはありますか?おたくカルチャーとの接点はあまりなかったかとは思いますが、それに限らず、思いがけないところでアウトの影を感じたというようなことが、もしありましたら教えてください。
おたくカルチャーよりもっと広範囲ですけど、今のSNSを見ていて、OUTの読者投稿欄を思い出すことは頻繁にあります。
おちょくり、カラミ、ツッコミや揚げ足取り、批判や討論、全部40年前にOUT誌上で見てきた光景です。
たまにパロディタグなんかが上がってると、嬉しくなって参加したりします。独りよがりな投稿には「雑誌ならボツなのに…」などと思ったり。
あと自分でわかる範囲で言えば、『ポプテピピック』[14]みたいなギャグとか、ここ数年の日清食品の一連のCMみたいなノリを見てると、「我々がアニパロを密かに喜んでた頃みたいな質の笑いだなー」と思いますし、私みたいな古い価値観の人間からしたら、「時代が一線を越えたなー」と感じます。
もちろん日清食品のCMクリエイターに月刊OUTが直接影響を与えたかどうかはわかりませんが、なかむらさんが感じた笑いの質が、昔ならマスメディアでは受け入れられなかったものだったということでしょうか?
そうであったとして、それはどのような笑いと言えるでしょうか?
(個人的にも、80年代あたりまではサブカルの世界でしか見られなかったような笑いのセンスが、その後だんだんお茶の間向けの領域にも出てくるようになったという印象はあります)
80年代前半は「メジャー/マイナー」のグループ意識が強くて、OUTのアニパロも、コミケのコスプレも、「同じ部屋の中にいる仲間たち」同士に向けた遊びでした。なんなら「マイナー」は差別対象でしたもんね(吾妻ひでお先生のマンガじゃないけど)。
それがいつ頃からか、パロディという遊びが部屋を出て、一般化しました。それに伴って、「部屋の中」だから多少シャレがきつくても受け入れられた冗談・楽屋オチ・さらに「禁句」的過激なノリなども、一緒に部屋の外に出始めました。
そこからネット時代に突入して、「メジャー/マイナー」の垣根がぐちゃぐちゃになった頃、私らあたりの「実はとんがったギャグ大好き」って連中が企業の管理職になっちゃったりして、40年前ならありえなかった笑いの表現方法にもGOサインを出しちゃうようになりました。
なので、「一線を越えた時期」は、正直曖昧です。
堀井雄二さんが少年ジャンプで巻頭ルポ『コミケだわっしょい!』を書いた時[15]かもしれないし、テレ朝の『トゥナイト』[16]でコミケ特集を放送するようになった時期かもしれないし、アイドルがテレビで公然と「私オタクなんですよー」と発言しだした頃かもしれないし。
ただ、1980年前後のOUTの「部屋の中のノリ」が好きだった者として、近年見かけるもろもろのそのテの笑いに思うのは、面白がってあげたい反面、フィットしない気持ち悪さも並行してある、妙な居心地の悪さです。
OUTの投稿常連からプロになった方は数多いですが、なかむらさんはその中でも常に「笑い」を軸に現在まで活動されており、その視点には私たちもうなりました。私たちが投稿していた'88前後でもちらほら『アウシタン倶楽部』という名前を聞くことがありましたが、その読者交流初期の貴重なお話を伺うことができました。(そのうち『アウシタン集会の歴史』という記事をまとめても面白いかも…。)なかむらさん、ありがとうございました!
[1] ‘77年8月号から使われた、読者コーナーや編集部からのお知らせ・次号予告・編集後記などの総称。’78年12月号より『ミックスサンド』に替わる。
[2] 読者アンケート発表で投稿者名が表記されなかったのは’79年8月号まで(ひょっとしたら9月号も?)
[3] ’78年11月号から始まった、1ページ漫画の投稿コーナー。当初はコマ割りとお題のセリフが入ったフキダシが印刷された投稿用紙が付属されていた。10年以上続く、月刊OUT随一の長期の投稿コーナーとなった。
[4] 全ページ切り取ってハガキとして使えるという、‘78年7月の月刊OUT増刊号。編集長はZこと柳沢健二。
[5] ’78年12月号に始まった読者投稿コーナー。お題に対してのショートショートや三題噺、アニメのパロディ投稿など、馬鹿馬鹿しくも知的なセンスが光るコーナーであった。
[6] 「Cさん並びに常連投稿者の皆さん、いっそのこと、みんなで集まって記念写真でも撮りませんか?今度の8月7日の晴海のコミケで。」という投稿。’83年11月号の『グラフィック・インフォメーション』にその時の写真が掲載されており、50名前後が集まったようだ。編集部コメントは「(コミケに)3万人を超すお客さんが集まっている中で、うまく出会えるか不安だったのですが、そこはそれアウシタン、ウジャウジャと上の写真のとおり。」
[7] ‘83年の時点でアニメック・ファンロードやアニメージュの読者集会が開かれていたのは事実(なんと'82年4月号の 月刊OUTに「アニメック&ふぁんろーどフェスティバル」の告知が掲載されている)で、読者層が重なっていたことからそこでアウシタン同士の交流もあったようだ。しかしOUT界隈では、『さくま学園学芸会』(レコード”燃えよ!フトリッパー”の新曲キャンペーン。’82年2月)や『南田操のアニメブレイク』で南田が告知した読者との交流会(‘82年5月号)はあったが、読者主体の集会やお茶会の記事・投稿はこの’83年夏までは確認できなかった(見落としがあるかもしれませんが…)。
[8] ‘87年5月号、10周年記念号の『完成!究極のアウシタン』というイラスト。男子・女子の架空のアウシタンの図がコミカルに描かれている。男子の「顔は純日本的である(外人から見た日本人の典型顔)「肩かけバッグ」「紙バッグは今だに健在」「親が買ってきた白ブリーフ」「ジーンズ常着」、女子の「かわゆいポーチ 中味は定期(アニメキャラシール付)」「よくある夏みかん頭」「明るいオシャベリが多い」「ひざが隠れるほどの長さのスカート」などの説明とともに、いかにも当時のアウシタン集会にたくさんいたような人物像に、当時の読者の誰もが自分に当てはまるポイントを見出しつつ爆笑したはずだ。
[9] 編集部スタッフをキャラクターにし、毎回その一人をメインキャラクターにして描いた4コマギャグマンガ。
[10] 「将最内高校 新聞同好会」を舞台とした、学園4コマギャグマンガ。編集部キャラクターは登場しないが、「大徹得男」という校長がいる。
[11] 関根勤と小堺一機のお笑いコンビ。テレビ・ラジオで多くのレギュラー番組に出演。
[12] ‘91年11月号から’95年5月号(休刊号)まで続く、スタジオHEGEによる企画記事と投稿のコーナー。
[13] 元OUT編集長の大徳哲雄が'89年に設立した編集プロダクション。
[14] 大川ぶくぶによる4コマギャグマンガ。竹書房・まんがライフWINに掲載。テレビアニメ化された。2018年『ネット流行語100』で大賞受賞。
[15] 週刊少年ジャンプ ’83年9月19日号。
[16] テレビ朝日で放映されていた深夜の情報バラエティ番組。(1980年-1994年)